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ストーリー

仲間と掴むパラリンピックの切符。視覚障害やり投げ若生裕太の挑戦。

若生選手がやりをもって陸上競技場で立っている画像。

静かに活躍の時を待つアスリートがいる。

パラ陸上男子 F12(視覚障害)クラス やり投げの若生裕太(わこうゆうた)選手。
競技歴は2年未満だが、日本記録を保持する世界ランキング8位の有望株だ。

体育教師を目指して勉学に励んでいた大学2年生の秋、レーベル遺伝性視神経症を発症した。両目の中心が見えにくくなり、細かい文字は読めなくなった。
黒板が見えずパソコン操作も難しくなったが、同級生のサポートを受けて単位を取った。

高校時代、甲子園出場経験がある強豪校で野球部の主将を務めた若生選手は、周りからの勧めで様々な障害者スポーツと出会う。

「今までやってきた野球の動作を活かせて、東京パラリンピックに最も近い競技を考えた結果がやり投げでした。もう1度、アスリートとして競技に打ち込みたい。」

2018年6月から専念し、約1年後の2019年5月には日本記録を更新した。しかし、目標とする東京パラリンピックへの道のりは平坦ではなかった。

若生選手がやりを片手に持って、笑っている画像。

8cm差で逃した最初のチャンス

「世界の舞台はまだ僕には早いということですね。この8cmを笑い話にできるように、帰って練習します。」

2019年7月、岐阜県で行われたジャパンパラ陸上競技大会の試合後、若生選手は悔しさを押し殺していた。
この大会で派遣指定記録の57m02cmを突破すると、2019年11月に行われる世界選手権に出場できる。世界選手権は、4位以内で東京パラリンピックの内定が得られる重要な大会だ。

結果、56m94cm。自身の日本記録を2m以上更新したが、8cm足りなかった。

1投目で記録を出し「これはいける」と思った直後、大雨が降った。雨はすぐに上がったものの地面が滑り、2投目以降本来の投てきができなかった。普段から「相当の晴れ男」と言う若生選手を、この時だけは天が見放した。

次の内定基準は、2020年4月1日までの世界ランキングで6位以内に入ること。
半年以上の長いオフシーズンが始まった。

日が沈みかけた陸上競技場の画像。

同級生の父の言葉から始まった挑戦

世界ランキングを上げるためには、当時、海外の大会に参加するしかなかった。若生選手は、2020年3月にドバイで行われる2つの大会への出場を考えていた。しかし、1人あたり30万円以上の渡航費は用意できない。

「どうすればいいか分からず、困っていた」という若生選手にきっかけをくれたのは、同級生の父、小林元郎(こばやしもとお)さんだった。

2019年8月、食事へ行った際に相談すると「仲間の力を借りなさい。そこで応援されなければ東京パラリンピックにも出る資格がないということだよ」と助言をくれた。高校野球部の同級生4人が中心となり、激励会の企画と寄付を募る準備を始めた。

リーダーを努めた岡 信太朗(おか しんたろう)さんが、当時を振り返る。
「自分も進路を決める時期で余裕がない中、やろうと思ったのは若生だったから。応援したいという気持ちと、若生なら成功するという確信がありました。でも、いざ始めると激励会の内容も寄付の金額も分からない。想像以上に大変でした。」

試行錯誤の中、小学校から大学まで1000人近くの友達に声をかけた。しかし、保護者のグループや高校野球部のOB会にはあえて連絡しなかった。
「寄付は集まるかもしれないが、東京パラリンピックの出場すら決まっていない段階で周りの大人が盛り上がるのは時期尚早。出場が決まった時に、盛大にお祝いしよう。」という小林さんのアドバイスを最後まで守った。

若生選手と小林もとおさんの笑顔のツーショット画像。
きっかけとなった2019年8月、小林さんとのランチにて

仲間とともに、いざ

2019年12月、都内で開いた激励会には50人以上が参加した。大学のサークルメンバーからサプライズで動画付きのメッセージが送られた。若生選手はスピーチの最後をこう締めくくった。

本当に感謝の気持ちでいっぱいです。必ず結果で恩返しします。

企画から運営までやりきった。その結果、200人を超える仲間から100万円が集まった。
岡さんの言葉は、皆の思いを代弁しているように聞こえた。

「誰に対しても『若生のためなら』と思わせる人柄が1番の魅力です。僕にとってパラリンピックは、若生がいなければよく分からなかった世界。若生には、やり投げに限らずパラ界の第一人者になって、挑戦する姿を多くの人に見せてほしいです。

若生選手が激励会で、スライドを使ってスピーチしている画像。
激励会でこれまでの経緯と決意を伝える若生選手


今回の参加費を寄付で用意したのは若生選手だけではないだろうか。だからこそ、誰よりもこの大会に賭けてきた。

世界ランキング6位との差は約1m。十分射程圏内だ。目標は世界ランキング4位相当の60mに定めていた。
順調にトレーニングを積み、
2月中旬の本番を想定した練習ではベスト記録が出た。出発の1週間前、若生選手の表情は自信に満ちていた。

「調子はめちゃくちゃ上がっています。暑い場所は大好き。一投目で決めます。」

若生選手が陸上競技場を堂々と笑顔で歩いている画像。
冬のトレーニングを経て、体つきも変わった

ドバイの借りは東京で返す

迎えた大会直前。若生選手の調子とは裏腹に、世界では新型コロナウイルスが猛威を奮っていた。

陸上競技も例外ではなく、出発の2日前、2つの大会のうち前半の大会が延期になった。後半の大会に合わせて渡航日を遅らせることもできたが、渡航禁止になるリスクを考え、予定通りの日程に決めた。出発当日、深夜にも関わらず、空港には大学の仲間が見送りに来てくれた。

ドバイに到着した直後、後半の大会が中止になることを知った。この瞬間、4月1日付けでの東京パラリンピック内定の可能性は消えた。

「中止と聞いたときには頭が真っ白になりました。言葉にできないというか…色んな人の思いを背負ってここまで来たので。」

応援してくれる仲間に「結果で恩返しします」と誓ったからこそ、試合すらできない現実を受け入れられない。

「去年出られなかった世界選手権もドバイだった。ドバイには縁がないのかも。」
珍しく弱音を吐いた。

それでも寄付者のグループで中止を報告すると、激励のメッセージがたくさん届いた。幸い現地では、大会で使用する予定だった陸上競技場で練習ができた。

若生選手がドバイの陸上競技場でやりを投げた直後を後ろから撮影した画像。
ドバイの陸上競技場で投擲練習

これで東京パラリンピックに出場できなくなったわけではない。2020年6月7日までの記録による選考が残っている。
目安となる標準記録は突破しているが、記録を伸ばして内定を確実にするため、複数の試合に出場予定だ。

ドバイから帰国した若生選手は、前を見据えていた。

「切り替えてやるしかない。これからの僕の頑張りで、今回の経験が良かったと言えるようにしなければならないと思っています。最後には必ず笑ってみせます。期待していてください。」

東京パラリンピックの試合は、9月3日。思いを槍に乗せて、最高の笑顔を届ける。

この記事を書いたライター

高橋昌希

1991年香川県生まれ。広島大学教育学部卒業後、国立障害者リハビリテーションセンター学院修了。視覚障害者のための福祉施設での勤務を経て、ガイドヘルパーの仕事を行う。教員免許(小学校・特別支援学校)を保有。歩行訓練士。Spotlite発起人。

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1991年香川県生まれ。広島大学教育学部卒業後、国立障害者リハビリテーションセンター学院修了。視覚障害者のための福祉施設での勤務を経て、ガイドヘルパーの仕事を行う。教員免許(小学校・特別支援学校)を保有。歩行訓練士。Spotlite発起人。

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