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ストーリー

「課題をクリアするためのノルマを自分に課すと、4年間はあっという間でした」パラリンピック金メダリスト 葭原滋男さん(前編)

真面目な表情で立っている葭原さんの画像。
アイキャッチ写真撮影:Spotlite

参天製薬に勤務する葭原滋男(よしはらしげお)さん。

パラリンピックに4度出場し、走り高跳びと自転車競技で金メダルを含む合計4個のメダルを獲得しています。ブラインドサッカーやサーフィンでの日本代表経験もある生粋のアスリートです。

また、地元の視覚障害者福祉協会の会長として、啓発活動にも積極的に取り組んでいます。

葭原さんの幅広い取り組みとその背景にある考え方を、2回に分けてご紹介します。前編では、スポーツと仕事に関するインタビューです。

略歴

1962年東京都杉並区生まれ。埼玉県鶴ヶ島市育ち。10歳の頃に網膜色素変性症であることが判明。22歳の時に、障害者手帳を取得する。国立障害者リハビリテーションセンターで鍼灸マッサージの免許を取得後、一般事務職として東京都庁に勤務。1992年~2004年まで、計4度のパラリンピックに出場し、金メダルを含む4個のメダルを獲得する。2011年に、ブラインドサッカーチーム「乃木坂ナイツ」を立ち上げ指導者としても活動。その他、ブラインドサーフィンといった新たな障害者スポーツの領域にも挑戦している。2016年に東京都庁を退職後、個人でイベントや講演活動を行う。2019年より参天製薬に入社し、CSR室で様々な事業に取り組んでいる。

スポーツの成績

1996年のアトランタパラリンピックでは走り高跳びで銅メダル、2000年のシドニーパラリンピックでは自転車競技の2種目で金メダルと銀メダル、2004年のアテネパラリンピックでも自転車競技で銀メダルを獲得した。

その後、ブラインドサッカーに転向する。2007年より日本代表に招集され、2009年のアジア選手権では日本選手で初めてハットトリックを達成した。

ブラインドサーフィンにも挑戦し、2018年12月、サンディエゴで行われた障害者サーフィン世界選手権大会に日本代表として出場を果たした。

家族4人での写真、自転車競技中の写真、表彰台の写真を1枚の画像にしたコラージュ画像。
陸上競技と自転車競技でパラリンピックに4度出場(写真提供:葭原滋男さん)

インタビュー

ー現在のお仕事について教えて下さい。
参天製薬のCSR室に所属しています。参天製薬は、医療用眼科薬を中心にした製薬会社です。私自身、眼科には十数年行っておらず、薬も飲んでいません。しかし、参天製薬の「視覚障害者を雇用して障害の有無に関わらずインクルージョンな社会の実現を目指す」という理念に共感し、社内で初めての視覚障害者として2019年に入社しました。


ー具体的にどのような業務をしているのですか?

インクルージョン推進リーダーとして、社内では視覚障害者の困りごとについて、目に関する企業として何ができるのか考える場をグローバルに展開しています。社外の業務ではパラアスリート、または視覚障害当事者として障害者理解について講演、体験会等を行っています。


ー葭原さんの強みを活かした幅広い業務を行っているのですね。

自分がつくった今までのつながりを有効に活用しつつ、弊社の力を借りて、広く深く推進しているイメージです。具体的な事例として、私が住む港区の視覚障害者福祉協会会長をやらせていただいているのですが、区のバリアフリー基本構想の改定を契機に、音響式信号機が24時間作動するように働きかけ、今後どのように推進していくか様々な関係者と協議を進めています。
また、様々な企業と視覚障害者の社会課題解決に向けて、意見交換を行い、障害の有無に関わらず、いきいきと共生できる社会の実現に向けて取り組みも行っています。社内では、視覚障害者の就労と言えば、ヘルスキーパーという概念を払拭し、視覚障害者の能力を最大限に発揮できる企業となるよう意識改革等にも取り組んでいます。


ーそうなのですね。改めて、葭原さんの眼の病気や見え方のことについて教えてください。
網膜色素変性症という病気で、遺伝性の病気と言われていますが詳しい原因は分かりません。10歳の頃に病気が判明し、自覚症状のない程度に徐々に進行してきて、今は照明など光がわかる程度までになりました。最近は、もう人の顔を見たり文字を読むことはできません。


ー病気が分かったのは10歳とのことですが、そのころから見えにくさはあったのですか?

夜盲があり、暗いところは見えにくかったり、野球をやっていてフライが上がると見失うことがしばしばありましたが、それ以外は普通に生活していました。22歳で身体障害者手帳を取得したのですが、その当時もまだかなり見えていて、新聞や辞書も読めましたし、自転車にも乗っていました。それから少しづつ見えにくくなり、40歳を過ぎたころ白杖を使うようになり、50歳を過ぎた頃から文字も読むのが困難になってきました。

笑顔で話している葭原さんを斜めから撮影した画像
葭原 滋男(よしはら しげお)さん(写真撮影:Spotlite)

ー葭原さんは、色々な種目でパラリンピックに出場しメダルを取られたり日本代表で活躍されています。もともとスポーツは何をされていたのですか?
小学校の頃は、野球やサッカーばかりやっている少年でした。足も速い方で学校の代表に選ばれることもありました。中学生の頃からは、サッカー一途の生活でした。20代の時は、スキーとサーフィンに夢中になっていました。


ー徐々に病気が進行していく中で、新しいことに挑戦する不安はなかったのですか?

「ない」と言ったら嘘になるかなと思います。私は視覚障害者に対して「かわいそうな人」「何もできない人」という偏見を持っていました。22歳で身体障害者手帳を取得した時、「人生終わったな」「俺ってかわいそうな奴だな」とも思いました。
しかし、鍼灸マッサージの勉強をするために、国立障害者リハビリテーションセンターに通い始め、多くの視覚障害者と出会い、様々な人がいることを初めて知りました。そこで、RBB(Revolutionary of Blind Brothers)というグループを作り、見えなくてもやりたいことを何でもやろうといった意識を持った数名が集まり、スキーに行ったり、キャンプをしたりする中で、今のチャレンジ精神が培われたのではないかと思っています。


ーその結果、パラリンピックに4度出場されました。今なお様々な競技に取り組まれるエネルギーはどこからくるのでしょう?
私のパラスポーツ人生のキーワードは「沖縄」です。全国障害者スポーツ大会という、いわゆる障害者の国体があるのを知ったのが、たまたま沖縄大会の年でした。「沖縄に行ってみたい」という一心で、RBBの仲間に声をかけ、私のアスリート人生が始まりました。そして、パラリンピックという存在も知ることになりました。「パラリンピックに行ってみたい」そして「パラリンピックのメダルがほしい」「もっと綺麗な色のメダルがほしい」「もっと違ったものも手に入れたい」そんな好奇心や向上心が、私のエネルギーの源ではないでしょうか。


ーパラリンピックの間隔は4年間もあります。モチベーションを保つのが大変かと思いますが、何か秘訣はあったのですか?

4年間と考えると非常に長く感じると思います。私は4年後の目標達成のために1年ごとの目標を設定しました。その1年ごとの目標を達成するための50の課題をリストアップしました。ひとつの課題に与えられた時間は1週間。その課題をクリアするためのノルマを自分に課すと、4年間はあっという間でした。


ー1992年~2004年までのパラリンピックに出場された際は、いずれも東京都庁に勤務されてました。仕事の中で大変だったことや工夫していたことはありますか?

就職して最初の大会の時は、上司に都民の奉仕者としての意識を持って仕事に当たること指導いただき、競技だけ出場してすぐ職場に復帰したのを記憶しています。それでも、練習は継続していきました。
都庁の階段は1階から48階まで約1000段あります。朝や昼休みに毎回タイムを計測し記録を取ったり、スポーツジムまでの定期券を購入することで、無理やり継続性を作ったり、たまに事務作業をしながら空気椅子をしてみたり、限られた時間を有効に活用することを心掛けていました。
1992年のバルセロナパラリンピックに出場した頃から、徐々に様子も変わって来て、周囲の皆さんも応援してくれるようになってきました。それでもやはり、大会前後はひたすら残業の日々で、疲労困憊で遠征に向かうことが多かったです。最近の選手たちのようなアスリート雇用などの雇用形態は、本当に羨ましく思います。

走り高跳びでバーを飛びこえる瞬間の葭原さんの画像。
1996年アトランタパラリンピックの走り高跳びで銅メダルを獲得(写真提供:葭原滋男さん)

ー東京都庁を2016年に54歳で退職されました。どのような思いがあったのですか?
2020年の東京オリンピック・パラリンピックが決まった頃から、講演会などに呼ばれる機会が少しずつ増えてきました。パラアスリートとして、2020年に向けて、「自分は何をすべきなのか?安定を取るのか、挑戦するのか」と自問自答しました。
結論は、都庁を退職して自分のやりたいことをやろうと決めました。相談すれば、きっと気持ちが揺らぐと思い、誰にも相談せず自分ひとりで決めました。「このタイミングを逃したら、きっと後悔する。今しかない」と思い、障害者になった時、RBBで仲間と過ごした時代に心に刻んだ「普通の障害者がやらないことをやってやろう。障害者らしくない障害者像を作ってやろう」という気持ちを貫くことにしました。


ー退職はお一人で決めたのですね。家族の反対などはありませんでしたか?

ないことはなかったです。ただ、家族は「都庁を辞めてほしくはないけど、反対しても辞めると決めたら辞めるんだろうな」と黙って納得してくれました。私が苦悩して出した結論だというのは、家族も感じてくれていたのだと思います。こんなわがままを黙って許してくれた家族には本当に感謝です。


ー東京都庁を退職してからは、どのようなお仕事をされていたのですか?
小学校から大学まで、学校に訪問して、児童・生徒さんたちを対象にパラリンピックに関する講演会やイベントを行うことが多かったです。企業からお声かけいただくこともあり、全国どこでも訪問させていただきました。日本ブラインドサッカー協会のお手伝いもさせていただき、それらを含めると、年間200件近く行わせていただきました。そんな生活を1年以上続けている中、参天製薬からお話をいただき、入社を決めました。

ブラインドサッカーの試合でドリブルをする葭原さんの画像。
現役のブラインドサッカー選手として活躍中(写真撮影:Spotlite)

後編では、地域の視覚障害者福祉協会で取り組む様々な活動や視覚障害者へのメッセージをお伝えします。

後編はこちらから。
「障害者らしくない障害者像を、さらに進化させていきたいです」パラリンピック金メダリスト 葭原滋男さん(後編) | Spotlite(内部リンク)