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ストーリー

パラ陸上メダリスト福永凌太選手「友人がくれた、涙が出るほどうれしかった言葉」とは

競技中の福永凌太選手。サングラスに日本代表ユニフォーム姿で両腕を大きく振って走っている。

パリパラリンピックの男子400m(T13クラス)の銀メダリスト、福永凌太選手。最近は絵や楽器を始めるなど、常に新しいチャレンジと「ワクワク」を大切にしている福永選手が、Spotlliteに寄稿してくれました。

福永凌太選手 プロフィール

2025年世界パラ陸上のメダルを手に笑顔の福永選手。
(写真提供:日本パラ陸上競技連盟)

1998年生まれ。滋賀県出身。日本体育大学大学院所属。
パリパラリンピック男子400m(T13クラス)で銀メダル、男子走り幅跳び(T13クラス)7位入賞。2025年10月「ニューデリー世界パラ陸上競技選手権大会」では、T13クラス(視覚障がい)400m決勝で銀メダルを獲得。

パラで世界を目指せるかもしれない

今回は、僕を最高にワクワクさせてくれたパラスポーツ・パラ陸上との出会い、そして今の僕が目指すものについて書きたいと思います。

僕がパラスポーツの世界に足を踏み入れたのは、大学4年生の頃です。

それまで見えにくさはあったものの、晴眼者のなかで競技を続けていました。しかし、当時の実力では競技の第一線からは退かなくてはならないと思い、多くの学生と同じように就職活動をしていました。

そんなある日、実家に帰る機会がありました。母に「陸上はやめて就職する」と話しました。すると母から言われました。

「パラでやればいいんじゃない?」

パラスポーツへの転向の提案でした。

このときまで、僕は自分のことを障害者と認識していなかったのです。「パラ」という世界のことは何ひとつ知りませんでした。しかし、この言葉を母からもらったときに「確かに」と素直に思いました。

そこからパラ陸上について調べ始めました。まず、視覚障害の陸上にはいくつかのクラスがあることを知り、自分が該当するであろうクラスの記録を見てみました。

すると、その当時の僕の記録が、パラ陸上の日本記録を上回っていました。

「そんなわけがない」

次に、直近で行われた世界選手権の結果も見てみました。するとそこでも僕が決勝に進出できる、メダル獲得の可能性がある種目が何種目かありました。

「もしかすると世界を目指せるかもしれない」

半信半疑ではありましたが、もしこの情報が本当なのだとしたら、僕の目指す場所……いやそれ以上の景色を見ることができるかもしれない。そう考えると体が震えるほどに心の底からワクワクしたことを覚えています。

健常者としてインターハイ決勝にも進出。しかし大学では限界を感じていた

僕は、錐体ジストロフィーという難病です。その影響で小学校4年生ごろから目が見えづらくなっていました。そのころ、両親の勧めで陸上競技をはじめました。見えづらさはあったものの、僕自身は「障害者」という認識がありませんでした。健常者として小学校から陸上競技に取り組んでいました。

そして、中学高校では棒高跳びに取り組みました。自分でいうのも恐縮ですが、僕は運動はそこそこできたようで、見えにくい状況でありながらも、棒高跳びで全国インターハイ決勝にまで進出しました。また、大学では十種競技という過酷な競技にも挑戦し、全国トップクラスのメンバーの中で競技生活を送っていました。

しかし、そんな僕の競技生活は順風満帆なものではありませんでした。そこそこの結果は残しながらも僕自身が目指す場所には常に届かずに、もどかしさと悔しさにまみれていたように思います。

走り幅跳び競技中の福永選手。両腕を大きく上にあげ、胸をそらして両ひざを曲げ空中を飛んでいる瞬間。
(写真提供:日本パラ陸上競技連盟)

答えが出なかった「どんなアスリートになりたいの?」

パラ陸上に転向してから数年が経ち、僕は3回の世界選手権で5個のメダル、そして学生の頃から目指していたオリンピック……とは少し形は変わりましたが、パラリンピックで1個のメダルを手にすることができました。この結果は、母からの一言をもらったとき、自分の湧き上がる気持ちにしたがって「パラ」の世界に飛び込むことができたからこそのものです。

不安や恐怖がなかったわけではありません。ただ、それまで続けてきた大好きな陸上をやめ、目指してきたものを諦めることに比べれば、そんなものはどうでもいいと思えるほどの心持ちでした。

「どんなアスリートになりたいの?」

競技を続けていく中でたびたび聞かれるこの問いに、僕の中ではなかなか答えを出すことができずにいました。月並みなものは思いつきますが、あまりピンとくるものに出会えずに答えを先送りにしている状況でした。

そんな時、高校時代の同級生と会う機会がありました。僕は会話の中で「自分の友達がメダリストってどんな感じなの?」と質問をしてみました。

するとその友達は、僕が少しずつ結果を出していくのを見て、本当にパラリンピックでメダルを取るかもしれないと「自分のことのように心の底からワクワクした」と言ってくれました。

僕はそれを聞いて、涙が出るほどうれしかったのです。なぜならその言葉は、僕がパラ陸上を始めるときに感じた気持ちと全く同じだと感じたからです。

赤系のタンクトップタイプの日本代表ユニフォーム姿の福永選手。胸元から顔までが写った写真。
(写真提供:日本パラ陸上競技連盟)

「ワクワクを届けられるアスリートになりたい」

僕は何かやりたいことがあればチャレンジしていきたいと考えています。「チャレンジすることからしか生まれないものがある」と考え、その生き方を大事にしています。

そして、自分の身の回りの人にも、自分がやりたいことには手を伸ばしてもらいたいと日ごろから思い、そんなメッセージも発信してきました。しかし、みんながそのような生き方ができないのもまた事実として理解していました。

だとすれば、僕自身がアーティストやアイドルのような推される存在、応援される存在になりたい。応援してくれる方たちと一緒に、思わず両手を挙げてしまうような喜びも、地面に打樋がれるような悔しさも味わっていきたい。そして先が気になるような人生という名の物語を、多くの方が一緒に読み進めてワクワクしてほしい。

友人の言葉は、僕自身の活動を通じて他の人にもワクワクを届けることができるんだということを気づかせてくれました。

「どんなアスリートになりたいの?」

今なら自信をもって答えられます。

「ワクワクを届けられるアスリート」

僕の物語はこれからも続いていきます。この先どんな展開が待っているのか、僕も楽しみです。一緒に楽しんでもらえれば幸いです。

執筆:福永凌太
写真提供:日本パラ陸上競技連盟
編集協力:株式会社ペリュトン

この記事を書いたライター

Spotlite編集部

Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

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