片岡亮太さん略歴
和太鼓奏者、パーカッショニスト、社会福祉士。静岡県三島市出身。
生来弱視で、10歳の時に失明。盲学校で知的障害のある同級生と友人になったことをきっかけに、社会福祉士を目指すようになる。
高校卒業後、上智大学文学部社会福祉学科に進学し、首席で卒業。社会福祉士の資格を取得し、プロの和太鼓奏者としての活動も始める。
2011年に、ダスキン愛の輪基金「障害者リーダー育成海外研修派遣事業」第30期研修生として単身渡米。2019年、今後の活躍が期待される若手障害者に送られる「第13回塙保己一賞奨励賞」(埼玉県主催)を受賞。
知的障害のあるタケシ君は、なぜ挨拶を返してくれない?
ー片岡さんの姿をさまざまなメディアで拝見します。和太鼓の演奏者や講師の登壇など幅広く活躍されていますが、現在のお仕事について教えてください。
メインの仕事は、和太鼓の演奏者です。ほぼ毎週、学校、自治体のイベントや講演会などで和太鼓の演奏をしていて、平均で月に4本のペースで舞台に出演しています。
他には、視覚特別支援学校で非常勤の講師を務めたり、月に2回コラムを寄稿したり、とある企業の社員相談役を務めたり、メディアに出演したりしています。
ー片岡さんは、社会福祉士という国家資格をお持ちです。社会福祉士を取得した理由は何でしたか?
実は、プロの演奏者を目指すよりも先に社会福祉士を目指していたんです。そのきっかけは、小学5年生から6年生のときに遡ります。
小学5年生の僕は、失明して盲学校に転校してきたばかり。通っていた学校のクラスには視覚障害だけでなく、軽度から重度の知的障害のある子もたくさんいました。突然パニックになって大声を出すような同級生も多く、「とんでもない場所に来てしまった」と感じていました。
そんな学校生活を送って1年が経った頃でしょうか。6年生になった僕は、タケシ君(仮名)という同級生と関わるようになります。
僕の通っていた学校では、知的障害のある生徒の学校生活を一部の生徒が手伝っていたのですが、先生からの依頼で僕も重度の知的障害があるタケシ君の手伝いをするようになったんです。
タケシ君は、やってほしいことを言葉で伝えると、言葉を復唱しながら動き始める子でした。たとえば、「タケシ君、着替えて」とお願いすると、「タケシ君、着替えて」と復唱して、着替えを始めます。臨機応変なコミュニケーションは難しいですが、言葉は伝わる子です。
ただ、タケシ君には、パニックを起こす特性もありました。たとえば、同級生と肩が触れると「いたいっ!」と校舎中に響くような声で叫ぶんですよね。もちろんタケシ君には、タケシ君の事情があり、必死に伝えようとしているだけなのですが、当時の僕はそのことがわかりません。「手伝っているときにパニックが起こると、大変な目に遭うかもしれない」と恐怖を抱いて、必要最低限の交流しかせず、距離を取っていました。
ある日、僕は、タケシ君が先生にあいさつを返している場面に何度か遭遇します。「タケシ君、おはよう」と先生に声をかけられると、「タケシ君、おはよう」と復唱するのではなく、「ヤマグチ先生、おはようございます!」としっかり返していたんですよね。もちろんタケシ君があいさつを返せないこともあります。それでも、先生が「そうじゃないよね」と声をかけると、言い直して、あいさつを返していました。
驚いた僕は、翌日、先生の真似をして、「タケシ君、おはよう」と話しかけてみたんです。そうしたら、先生への返事とは異なり、「タケシ君、おはよう」と復唱で返ってきました。すかさず「そうじゃないでしょ」と伝えたのですが、「そうじゃないでしょ」と僕の言葉がそのまま返ってきただけで……。
友人たちが幸せになれる社会を作りたい
「どうしてだろう?」と小学6年生の僕は考えました。そして、自身の考えを深掘りしていくうちに、あることに気づいたんです。それは、「僕がタケシ君に無意識の偏見を持っていたから」ではないか、ということです。
先生たちは、タケシ君も他の生徒も「自分の教え子」という同じ目線で接していたのですが、僕はタケシ君を自分とは異なる存在……いや、恥ずかしい話ですが、タケシ君が自分よりも下の存在と思って、接していました。
ここで、ようやく自分の醜い感情に気づきました。後悔がどっと押し寄せて、恥ずかしさで押し潰されそうになったんです。
当時、僕自身、視覚障害のことで悪気なく同情されたり、からかわれたりする場面が多く、その度に、怒りと悲しみが混ざった感情に飲み込まれてつらかったのですが、自分が傷つくようなことをタケシ君にやってしまっていたんですよね。後悔が止まらず、考え方も態度もすべて改めていこうと誓いました。
ーそのあと、タケシ君との関係に変化はありましたか?
これは信じられない話なのですが、僕が反省した翌日、「タケシくん、おはよう」と声をかけたら、「片岡君、おはよう」とあいさつを返してくれたんですよ。僕の変化に気づいて許してくれたのだと思います。本当に救われました。それから、タケシ君は大切な友人になりました。
このことをきっかけに、タケシくんをはじめとした知的障害のある同級生が大好きになり、できる限り一緒に行動するようになったんです。こうして彼らと仲良くなったのが、社会福祉士を目指した原点です。
ーありがとうございます。友人たちとの出会いが社会福祉士を目指したきっかけだったんですね。
そうですね。また、僕自身、知的障害の友人たちに向けられている世間の反応を見て、怒りと悔しさとやりきれなさを感じることも多かったです。
友人たちと電車に乗ったり、他の施設を見学していたりすると、目の見えない僕でも分かるくらい空気が凍りつくんですよ。友人たちがパニックを起こして大声を出すと「迷惑だよ」と見ず知らずの人から怒られることもありました。友人たちには友人たちの理由があるんですが、それらが考慮されず、「いないもの」と見られる。とてもつらかったです。
また、進路に関しても、友人たちの選択肢は限られています。義務教育を終えると入学できる高校がなかったり、入所できる施設がなかったりするケースは少なくありません。進路を選ぶ自由はなく、進路から選ばれるような状態です。
こういった不公平な社会に疑問を感じて、「原因がどこにあるのか知りたい」「障害のある当事者のサポートに携わり、社会を変えていきたい」と思い、社会福祉士を目指すようになりました。
障害当事者で社会福祉士の僕にしかできない演奏を目指す
「社会福祉士として社会を変えるきっかけをつくりたい」という思いと「プロの太鼓演奏者になりたい」という思いは、つながっているんです。
和太鼓のプロになろうと思ったきっかけは、20歳のときに親しくしていたプロの演奏を見て、「同じフィールドで戦いたい!」とふつふつとした感情が湧いてきたからです。
僕はこれまで社会福祉士として、障害のある方々のお手伝いをすることで、社会を変えていきたいと思っていました。でも、障害や福祉の勉強をしていく中で、「この話、障害について知らない人に聞いてもらったほうがいいのでは?」と思う回数が増えていったんです。
そんなことを考えているうちに、「あれ?自分は社会福祉士の前に、視覚障害の当事者だよな」とあとから気づいたんです。「もし社会福祉士と障害当事者の視点を持ちつつプロの演奏ができるようになったら、障害についてより多くの人に伝えられるのでは」「演奏とともに自身の考えていることを伝えれば、より多くの人にアプローチできるのでは」と考えるようになりました。
「障害の当事者で、福祉士である僕にしかできないプロの演奏者になろう!」と思い、大学で福祉士の勉強に取り組みながら、演奏者としての活動を始めました。
心ににちょっとした揺さぶりを残したい
ー社会福祉士の和太鼓奏者として、どんなことを伝えていきたいですか?
僕は、価値観を見直すきっかけとして、揺さぶりを与えられる存在になりたいと思っています。いろんな人の価値観をほんの少しでもいいから揺さぶりたい。小石を投げて波紋を起こせるような小さなきっかけでいい。そういう演奏家になろうと思い、活動をしています。
和太鼓はビジュアルに訴える要素が大きく、演奏を見にきてくれた人に揺さぶりを与えやすいと思うんですよね。目の見えない人が、複数の和太鼓をダイナミックかつ繊細に叩いていく姿は、視覚障害のある人のイメージと結びつきにくい。光すら感じ取りにくい僕が、背丈よりも高い太鼓にバチを打ち込んだり、別の太鼓を小刻みに叩いたりすると、演奏を見たお客さんの中に、「すごい!意外だ!」と思われる方が現れます。そうすると、その方達は、なぜ意外に思ったのかを考えますよね。この「意外だ」から始まる問いのきっかけ、つまり「揺さぶり」を色々な人に与えて、社会に変化の波が起こるきっかけを作ることができればと思っています。
取材を終えて
2月19日、片岡さんの演奏会に行きました。
ライブで聴くと、体の芯に振動が伝わってズシンと響きます。特に和太鼓の響きの変化に驚きました。太鼓の素材やサイズ、叩き方、バチの種類、太鼓のどの部分を叩くかによって、硬く短い音色から深く余韻の残る音色まで、音が多様に変化します。それに呼応して、聴く側の体の振動も、喉元、胸の奥、お腹と移動します。片岡さんは、「音の響きを浴びると、体にもいい効果がある気がする」と話していましたが、そのことを感じられる時間となりました。
取材の際、片岡さんは、社会福祉士、障害当事者、プロの演奏者という3つの立場から「多様性のある社会を目指すには、いま前提にある無意識の常識に疑問を持たないといけない」と語ってくれました。
無意識の常識は、偏見にも繋がります。片岡さんのお話と演奏を聴いて、もう一度、自分の常識を考え直してみようと思いました。