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編集部から

高校のテストで321人中321番になった僕が、視覚障害者と関わるようになったわけ

オレンジ色のイラスト背景。画像右に高橋さん、左にタイトルが配置されている。

こんにちは。Spotliteを運営している高橋昌希です。

私は、高校1年生のテストで321人中321番になったことがきっかけで、視覚障害者と関わることになりました。

よく、「なぜ、視覚障害者に関わる仕事をしているのですか?」「ご家族に視覚障害者がいらっしゃるのですか?」と聞かれます。

私の家族や親戚に障害者はおりません。母が、特別支援学級の教員をしていたので障害という言葉が身近にはありましたが、それほど関心があるわけではありませんでした。

そんな私が視覚障害者と関わるまでには、高校のテストで最下位になったことを含めて、3つの原体験があります。

仲間はずれを見捨てない原点

「キミ、真面目だね。補習をしましょう」

中学校まで、私は勉強が得意でした。小学校高学年から塾に通い「学校の勉強はいつも簡単だな」と思う日々。
高校は、県内で1番の進学校に入学しました。

それが大きな転機になりました。

これまで勉強ではずっと1番だったのに、自分より優秀な人が山ほどいるのです。そういう人に限って、あまり勉強をしているようには見えず、部活も一生懸命やっている。漫画の主人公をそのまま現実にしたような、スーパーマンがたくさんいました。

「成績優秀な高橋くん」「タカコー(高校の略称)に通っている高橋くん」
これまで勉強の成績だけが人を評価する材料だと思っていた私は、自分の存在意義が分からなくなりました。

授業中、窓の外を見て過ごし、次第に学校に行かなくなりました。

暗い部屋の中で、小さい窓から少しだけ明かりが入っているイメージ画像
価値観に大きな変化がありました(写真素材:Unsplash)

高校1年生の校内模試は、321人中321番。
「あ、最下位って本当にあるんだな」という驚きを鮮明に覚えています。成績表は、丁寧に破いてトイレに流しました。

そんな中、とある試験での生物のテストは、いつも通り赤点でした。
しかし、丸の数と点数を見比べると、明らかに点数の方が高かったのです。たしか、24点なのを27点くらいで採点していた程度です。

「どうせ同じだし、言いにいくか」と思い、私は質問者の列に並びました。

生物を担当していたのは、カワセ先生。白ひげをたくわえた、非常勤のおじいちゃん先生です。

ボソボソした話し方で、生徒からはナメられていました。大学受験で生物を選択しない生徒は、はなから他教科の勉強をしたり堂々と寝ていました。
そんなカワセ先生に、採点ミスを伝えると、

「ほう…キミ、真面目だね。私は水曜日に学校にいます。放課後、職員室で補習をしましょう」と言われ、テストの採点間違いを伝えるだけのはずが、なぜか職員室へ通うことになりました。

それから、ショウジョウバエの目の色を比べてみたり、鳥の脳みそを解体してみたり、カワセ先生と2人きりの補習が数ヶ月続きました。
今思えば、特定の生徒を特別扱いをしていいのか分かりませんし、正直、補習で学んだことは一切覚えていません。カワセ先生、ゴメンナサイ。

しかし、その補習の時間は、私の心の拠り所になりました。
次のテストでは、「カワセ先生のために」という気持ちで生物だけを勉強し、90点台を取りました。

マイノリティになることのしんどさと葛藤、そこに寄り添う存在に出会った時のなんともいえない安心感が、自分の中に強く刻まれました。

そんな私は、大学進学後にも大きなきっかけに巡り合いました。

夕日の中、木の下で2人が椅子に座って話をしている画像
仲間はずれを見捨てない原点になりました(写真素材:Unsplash)

誰かから感謝される原点

「僕が、感謝されている…?」

高校3年生になるとまともに勉強し、奇跡的に大学に進学することができました。しかし、特にやりたいことがあったわけではなく、堕落した生活は続きました。
当時の私は、学内で楽しそうにワイワイする同級生を見て「しょうもない」とつぶやく、実にしょうもない学生でした。

転機は、大学3年生の時です。
ベトナムから来た留学生の生活をサポートする担当になりました。その留学生が、全盲だったのです。

留学生は、「ベトナムでは、視覚障害者の支援環境が整っていない。日本で学んだことを持ち帰り、母国に盲学校を作りたい」という夢を語っていました。

ベトナム語に加えて、英語と日本語がペラペラの全盲の視覚障害者です。たしか、年齢は30代、家族をベトナムに残して単身で留学していたはずです。

私とはあまりに志が違いすぎました。

でも、ふとした時、食堂でしょうゆとソースの違いを伝えるだけで、授業のあと買い物に一緒に行くだけで、とても感謝されました。

「僕が、感謝されている…?」

自分でも人の役に立てる。もしかすると、誰かから感謝される存在になれるのかもしれない。全盲の留学生との出会いが、視覚障害者に関心を持つ大きなきっかけになりました。

同時期に、大学の恩師の取り計らいで、高齢の視覚障害者に点字を教えに行くという経験もできました。教育学部だったのですが、「教職より福祉に関わりたい」と思い、国立障害者リハビリテーションセンター学院の視覚障害学科に進学しました。正直、1度は関東に住んでみたいという動機もありましたが。

進学後は、白杖を使用した歩行指導、点字、音声でのパソコン操作など、視覚障害者が自立して生活するための支援を学びました。この時の数々の出会いも、今の私に多大な影響を与えています。

高橋さんがアイマスクをして、路地で歩行訓練をしている画像
演習の時間がたくさんありました(提供:高橋昌希)

そのままの自分を受け入れてくれる原点

ジャンボ誕生。

私は学校の授業でゴールボールというパラスポーツを知り、体育館の練習を見学に行きました。
初めて参加した時、体育教官からの「身長大きいね。ジャンボだね」という一言で、私のあだ名はジャンボになりました。
人を容姿で呼称することへの賛否はあるでしょうが、私が納得しているので、一旦ここでは問題にしないこととします。

これまで、「◯◯大学の〜〜さん」「△△商事の〜〜さん」というように、人は学歴や所属する組織で評価されるものだと思っていました。

しかし、ここでは10代から50代までの様々な年代の人が、障害の有無や性別に関係なく、同じ競技を楽しんでいました。

誰も出身大学や所属している会社を聞くことなく、「ジャンボ、ちょっとボールとって」と気軽に声をかけてくれます。

これまでの自分の価値観にはなかった、そのままの存在を認めてくれる、あたたかな場所でした。

ゴールボールの交流大会で、高橋さんが試合に出ている画像
交流大会に出場しました(提供:高橋昌希)
高橋さんが学生時代に一緒にプレーしていた仲間と一緒に記念撮影している画像
ゴールボールの仲間とは今でも連絡しています(提供:高橋昌希)

カワセ先生から、マイノリティを見捨てないことを学び、
全盲の留学生に、人の役に立つ体験をさせてもらい、
ゴールボールで、そのままの自分を受け入れてくれた。

これが、私が今、視覚障害者と関わっている原体験です。

高校時代、自分が勉強しなくなっただけの一時的なマイノリティを、誰のせいでもない原因で視覚障害になる人と同じと捉えることが根本的に間違っているのは重々承知しています。

私は晴眼者なので、視覚障害者の気持ちを全て理解することはできません。
しかし、視覚障害者と関わる時間は居心地がよく、自分の原体験とどこか重なるところがあるのも事実です。

2人の足元と白杖、カラフルな紅葉を写したイメージ画像
視覚障害者との関わりはこれからも続けたいです(撮影:Spotlite)

カワセ先生や留学生と、今、連絡は取れていません。
だけど、マイノリティに寄り添う活動をしていれば、視覚障害者と関わる活動をしていれば、少しは2人への恩返しになるのではないか、もしかするといつか再会してお礼を言うことができるのではないか、と思っています。

ゴールボールチームは今も継続して活動しているので、わずかながら毎月個人的に寄付しています。たまには、練習にも顔を出したいと思います。

皆様お察しの通り、私が視覚障害者と関わるようになったのは、極めて個人的な理由です。最初から崇高な思いがなくても、興味を持ったことに関わってみると、自分の価値観にはない経験ができるのかもしれません。

現在、自分が理想とする社会にはほど遠く、できていないことばかりです。これから少しずつ、自分にできることから取り組みたいと思います。

高橋さんが、視覚障害者の人を誘導しながら梅の木を指さし説明している画像。
自分ができることに取り組みたいです(撮影:Spotlite)

(アイキャッチ写真撮影:Spotlite)

この記事を書いたライター

高橋昌希

1991年香川県生まれ。広島大学教育学部卒業後、国立障害者リハビリテーションセンター学院修了。視覚障害者のための福祉施設での勤務を経て、ガイドヘルパーの仕事を行う。教員免許(小学校・特別支援学校)を保有。歩行訓練士。Spotlite発起人。

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高橋昌希

1991年香川県生まれ。広島大学教育学部卒業後、国立障害者リハビリテーションセンター学院修了。視覚障害者のための福祉施設での勤務を経て、ガイドヘルパーの仕事を行う。教員免許(小学校・特別支援学校)を保有。歩行訓練士。Spotlite発起人。

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