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啓発

今、視覚障害者として旧優生保護法を考える。【後編】

前回の記事(内部リンク)では、視覚障害にまつわる優生思想および旧優生保護法の歴史を、視覚障害者の立場から紐解いてきました。

後編では、優生思想は今現在の社会にもひそかに根を張っていることについて考えていきます。

本記事では、障害者に対する差別発言を扱っています。ご注意ください。

この社会は優生思想を克服できていない

2023年現在において、優生思想を見て取ることができる事件といえば、最初に思い浮かぶのは神奈川県相模原市の知的障害者の入所施設、津久井やまゆり園で起きた大量殺人事件でしょう。しかし、現在の優生思想を語る上で忘れてはならない事件は、他にもあります。

それは、2022年に発覚した、北海道江差町の知的障害者のグループホームでの事件です。このグループホームでは、結婚や同居を望む知的障害者のカップルに対し、「不妊処置をしなければ、今後サービス提供をしない」などと迫ったことが明らかになっています。

サービス提供なしでは生きていけない人々に対し、今後のサービス提供と引き換えに子どもを諦めるよう促すことは、事実上の強制不妊といえます。これまでに挙げた2つの事件がひどい事件であることに間違いはないのですが、「特殊な状況だった」と解釈するのは違うと私は考えています。

例えば、こんな言葉を見聞きしたことはないでしょうか。

「上の子に障害があるのに、どうしてまた子どもを産むのだろう」
「障害者に子育てなんてできないから、子どもを持つべきじゃない」
「障害者が子どもを産むと、子どもに障害が遺伝して不幸になる」

全部、私が現実世界やインターネットの空間で見聞きした発言です。

上記の発言すべてが優生思想に基づいていると言えます。しかし、上記の言葉は必ずしも悪意に基づいたものではありません。発言者のなかには、私が遺伝する難病であるアルビノの患者だと知っている人もいました。明確には、このような発言を私に聞かせた人々のなかに、私の実の母もいます。悪意ではなく、善意ゆえにこのような発言をする人も多いのです。

横並びで話す2人の写真。1人は白杖を手に持っている。
写真撮影:Spotlite

新たな技術を使う前に、社会で十分に議論するべきだった

胎児の染色体異常を調べる新型出生前診断(NIPT)や、受精卵を調べる着床前診断について、耳にしたことがある人も少なくないでしょう。新型出生前診断では、妊婦の77.6%が妊娠継続を諦めています(※)。

(※)NIPTコンソーシアムによる統計(参考:出生前検査認証等運営委員会 外部リンク)。これによると、日本医学会の認定施設で新型出生前診断を受けて陽性が出た後に確定検査を行って病名が確定した妊婦が対象。新型出生前診断で陽性が出てから確定診断を行う前に胎児が亡くなる、確定検査を受けないと決断したなどの事情で、新型出生前診断を受けて陽性と出ても病名を確定させていない方もいますが、それを踏まえても大半のカップルが中絶を選んでいるといえます。

新型出生前診断は認定を受けていない施設でも行われており、そういった施設の公式サイトには「障害児が生まれると大変」「障害を持って生まれるとこんなに苦しむ」といった障害児の出産、育児への不安を煽る文言が並んでいます。それらは医学的に間違ってはいなくても、偏った情報になってしまっていることがあります。生後の赤ちゃんの経過について、ネガティブな情報や表現を多く載せ、希望を持てるような表現は限りなく少ない。書き手として、そのような表現方法には、カップル、特に妊婦の不安を煽る意図を感じます。

このような状況に陥った背景には、旧優生保護法の被害者に十分な謝罪と賠償が行われていないなど優生思想と決別できていない社会に、議論や法の整備が不十分なままに新型出生前診断をはじめとした新たな技術を導入してしまったことがあると考えられます。

当事者たちの出生前診断、女性の権利

事態はさらに複雑です。障害や疾患の当事者が子どもを望むときに、「自分達と同じような苦しみを子どもに味わってほしくない」と新型出生前診断や着床前診断を受けることもあるのです。私は子どもを望みませんが、当事者が子どもに障害や病を遺伝させたくないと思う気持ちは想像できます。

自分達が障害や病で苦しんだからこそ、自分の子どもには苦しんでほしくない。苦しむとわかっていてそのような状態で産むことは、本当にその子のためといえるのか。この問いに、私は明確な答えを出せません。子どもの人生から苦しみを取り除けるならそうしたい。それが親心だというのも、苦しいかはその子が決めることというのも、どちらもその通りだと思ってしまうのです。

また、優生思想と妊娠や出産を語る上で、女性の権利の話は避けて通れません。妊娠しうる人の人権の一つとして、「中絶の権利」があります。望まない妊娠をした場合に、妊娠している本人の意思で人工妊娠中絶を行う権利です。

自分の身体は自分のものですから、当然の権利といえます。しかし、この点で、女性運動と障害者運動は衝突します。障害者達は「胎児の障害を理由に中絶するのはおかしい」と主張したのです。この衝突は、「産む/産まないの決定権は妊娠している本人にあるが、胎児の障害を理由に中絶する権利というのはない」と結論することによって、落ち着きました。

窓際に立つ妊婦。差し込む光に照らされて、妊婦の影が目立つモノクロ写真。
写真素材:Unsplash

変わるべきは「障害や病を持って生まれると苦労する」この社会

教育段階で障害や病の当事者と分離されていることが多いため、障害や病と距離を置いて暮らす人々が抱く障害や病のイメージは極端になりがちです。障害や病のある子どもを育てることについて不安になるカップルが多いのも納得できますし、実際、この社会で障害や病のある子どもを育てることは容易ではない事実はあります。

就学できたはいいものの、保護者(大抵は母親)が始終つきっきりであることを学校に要求された、地域の学校ではなく遠くの特別支援学校に子どもを送迎しなければならない、通院やリハビリのために保護者は共働きを続けることができない、などの事実は、否定できません。

公的な支援も行き届いているとは言い難い状況にあり、「障害や病のある子が生まれると親も子も大変」という言葉を全否定することは、現在においては不可能です。しかし、「障害や病を持って生まれると苦労する」原因は障害や病のある本人にあるのでしょうか。障害や病がある人々を排除して成り立っているこの社会の側にこそ、障害や病のある人々の困難を解消する責任があると私は考えています。

視覚障害者として、あるいはその関係者として、優生思想に抗うには、何ができるでしょうか。「障害や病を理由に中絶するべきではない」と訴えることも大事ですが、他にもできることがあります。障害や病とともに生きる暮らしをよりよくするために社会に働きかけ、障害や病から生じる困難を少しでも軽くしていくこと、そして、障害や病がありながらも生きている自分たちの様子を発信し、「案外いろんなことができる」「工夫次第でこんなこともできる」と希望を持ってもらうことです。

障害や病そのものを当事者や周囲の苦労の原因と考える人も少なくありませんが、社会の制度や環境が変われば、障害や病によって生じる困難は軽減できるのです。そのことをより多くの人々に伝え、障害に対する悲観的なイメージを少しずつでも変えていく必要があります。

私は、自身が障害や病とともにあることを無条件に肯定できません。今でも、視機能の改善を望む気持ちはあります。「生まれてきてよかった」とも思っていません。それでも、優生思想に殺されたくはありません。自分のような子どもが産まれない未来も、産む/産まないの選択を奪われる未来も、障害や病を理由に隔離されたり殺害されたりする未来も、私は全力で否定します。

障害や病のある人々は、たしかにここに生きている。その現実を発信し続け、現実をよりよくしていくこと。そこにわずかでも希望があるのではないでしょうか。

赤いチューリップが中央に10本並んで咲いている写真。
写真撮影:Spotlite

この記事を書いたライター

雁屋優

1995年生まれ。ライター。アルビノによる弱視と、発達障害を併せ持つセクシュアルマイノリティ。大学では生物学を専攻。自身のマイノリティ性からマイノリティに関することに関心を持つようになる。その他、科学や医療に関する理系記事も執筆している。

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1995年生まれ。ライター。アルビノによる弱視と、発達障害を併せ持つセクシュアルマイノリティ。大学では生物学を専攻。自身のマイノリティ性からマイノリティに関することに関心を持つようになる。その他、科学や医療に関する理系記事も執筆している。

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