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ストーリー

パラリンピックでボランティアをした視覚障害者。今だから言える悔しさ、嬉しさ、メッセージとは?

村松さんが東京パラリンピックのボランティアのユニフォームを着て、目をつむって立っている画像。

記事の目次

アイキャッチ写真撮影:Spotlite

日本中に感動を与えた東京2020パラリンピック。パラアスリートの活躍や、開会式、閉会式での障害者のパフォーマンスが話題になりました。

そんな中、ボランティアとして大会を支えた視覚障害者がいたことをご存知でしょうか?

今回、パラリンピックの自転車競技でボランティアを行った村松芳容(むらまつよしひろ)さんにインタビューを行いました。
大会までの様々なエピソードやボランティアを通して感じたメッセージをお伝えします。

略歴

1991年静岡県生まれ。14歳の時、突然意識を失い、全盲になる。現在も原因は不明。浜松視覚特別支援学校から筑波技術大学へ進学し、あんま鍼灸マッサージ師の資格を取得する。その後、筑波大学理療科教員養成施設で教員免許を取得。現在は、静岡県内の特別支援学校で教諭として勤務している。

インタビュー

ー今回のパラリンピックでボランティアを行うこととなったいきさつを教えて下さい。
2018年、私が筑波大学の理療科教員養成施設に在籍していた時、学内で視覚障害者を対象にしたボランティア向けの説明会があることを知りました。
最初は「視覚障害者がボランティアとして何ができるんだろう?普段手助けを受けている自分が、サポートできるのだろうか?」と疑問でした。
しかし、クラスの中で視覚障害者でもボランティアをやってみようという雰囲気があり、応募しました。


ー応募した後、どのような過程があるのですか?
オリエンテーションのあと、組織委員会の担当者との面接を経て、共同研修を受けます。オリエンテーションの中で、数人でのグループワークがありました。折り紙を使ってタワーを作り、1番高いチームが優勝するというものです。初対面の人同士が協力して任務を遂行する力を養うものです。
私は手伝えることがなく、「がんばって」と言っているだけで「何もできないじゃん」と思いました。さらに、全員ネームプレートはつけていますが、名乗ってくれない人もいて名前が分からない人もいました。「やっぱり厳しいかな。できないかも」と思ったのですが、「色んな人と知り合えて楽しい」という気持ちがモチベーションになり、参加することにしました。

村松さんが会議室で笑顔でインタビューに答える画像
終始、明るい雰囲気でお話いただきました(撮影:Spotlite)

ー共同研修はどのような内容だったのですか?
大会概要や競技説明、オリンピック・パラリンピックの歴史を学びます。また、障害平等研修(Disability Equality Training:DET)という名前で、障害について考える時間がありました。そこで「I am You」という動画を見ました。
内容は、健常者と障害者の生活があべこべになるものです。例えば、バスに乗る時に「車椅子しか乗れません。立ってたらあぶないよ」と言われたり、役所のパソコンに画面がなく音声操作しかできなかったり、これを読んでくださいと言われて全部点字の資料を渡されたりします。
この動画を通して、障害は社会的な障壁によって生まれるものであるという考え方を学びました。私は他の障害について専門的に勉強したことがなく、肢体不自由や聴覚障害などの不便を知り、障害とは何かを考えるきっかけになりました。


ー研修を通じて、村松さん自身にも色々な気づきがあったのですね。
共同研修は、会場へ行く時だけ知人に誘導を頼んでおり、帰りは自力で駅に行かなければなりませんでした。そこで、スタッフに駅まで誘導してもらおうと思いました。しかし、「研修には300人くらい参加しており、この研修を受けた上で誰も私に声をかけないというの意味がないのではないだろうか。目の前に白杖を持つ人がいたら声をかけるいい機会になるのではないかな?」と考え、自分一人で駅まで向かってみることにしました。すると、早々に声をかけてくれる人がおり、無事に駅まで辿りつけました。


ー共同研修を修了した後、すぐにボランティアの打診があるのでしょうか?
研修を全て修了した人を対象に大会本部からボランティアの打診があり、各個人で依頼を受けるかどうか判断します。
2020年3月、私はパラリンピックのボランティアのオファーを頂きました。しかし当時は新型コロナウイルスが流行している上、4月から新しい職場で働くことが決まり、見通しがつかない状況でした。ボランティアに参加して万が一コロナウイルスに感染してはいけないと思い、とてもやりたい気持ちはあったのですが、辞退しました。

村松さんが机の上の点字ディスプレイを触っている手元の画像。
点字ディスプレイを触りながら(撮影:Spotlite)

ーそうなのですね、自分の職責などを考えての判断だったのですね。
はい、結果的にオリンピック・パラリンピックは1年延期になり、2021年の3月に再度オファーを頂きました。内容は、静岡県内で行われるパラリンピックの自転車競技の表彰式に関わるものでした。
管理職に相談すると、地域の学校が見学に行く学校連携の話があったこともあり、参加を承諾してもらいボランティアを行うことができました。


ー様々な準備をして本番を迎えることかと思います。本番までで大変だったことや工夫したことはありますか?
事務局から様々な連絡を頂くのですが、シャトルバスの時刻表がPDFで送られてきました。PDFは音声で読み上げるものもありますが、今回の形式では全然読めませんでした。メールの本文に、「これ、それ」という指示語もたくさんありました。
視覚障害に対して最低限の配慮はしてほしく、資料はテキストデータで送ってほしい旨をメールすると、パラリンピックが始まってから1週間たった時にテキストデータで頂けるようになりました。少し対応に時間はかかりましたが、ボランティアに配慮してもらえたことはよかったかなと思います。

公園にて、東京パラリンピックのボランティアのユニホームを着て、満面の笑みを浮かべる村松さんの画像。
鮮やかな青のユニホームでした(撮影:Spotlite)

ー大会本番での様子を教えてください。
8月23日から27日の5日間は伊豆ベロドローム(以下、伊豆)で、8月30日から9月3日までの5日間は富士スピードウェイ(以下、富士)で活動することになりました。私たちの表彰式チームが行う仕事は4つです。
①アスリートの先導 ②プレゼンター(メダルやブーケを渡す人)の先導 ③メダルを運搬 ④ブーケの運搬です。
10人のメンバーが1つのチームになり、チームには大会本部との連携などを行う責任者が1名つきます。10人の中で、障害者は私1人だけでした。
メンバーは初対面で、視覚障害者と接したことはほとんど無い人ばかりのようでした。最初は「立てますか?」とおじいちゃんのような接し方をされたこともあります。障害平等研修では、eラーニングで誘導方法を学んだだけで演習はなく、接し方には慣れていなかったのだと思います。

ーそうなのですね。ボランティアの参加者が、視覚障害者の誘導法など専門的な技術までは学ぶ時間はなかったのですね。
はい、そもそも表彰式に一般のボランティアが関わるのは今回が初めてだったようです。
2008年の北京パラリンピックまで、表彰式のボランティアは女性限定だったと聞きました。さらに見た目の華やかな女性が関われるように、美容学校の生徒が参加していたこともあるようです。しかし、2012年のロンドンパラリンピックからから男性も参加するようにになり、今回の東京パラリンピックで初めて一般公募から表彰式に参加したそうです。

真剣な表情であごに手をあてている村松さんの画像。
幅広い知識や経験をお話いただきました(撮影:Spotlite)

ーそのような経緯があったとは知りませんでした。村松さんが実際にボランティアをされていかがでしたか?
少しネガティブな話になりますが、伊豆ではあまりいい思い出ができませんでした。 他の仲間は、メダルを運んだり、プレゼンターを先導するなど、毎回役割が変わる中、私はブーケを運ぶという役割で固定されていました。 責任者に、他の役割はできないのかと聞くと「メダルを乗せるお盆が滑りやすいので危険だ」と言われたり、2人で先導することは「見た目の問題」という理由で断られたりしました。 毎朝、6時半には出なければいけないので、「今日もブーケを運ぶだけかな」と思って、憂鬱になってしまいました。


ーそうだったのですね。周りの仲間のサポートには何か変化はありましたか?
私を誘導してくれる専門のスタッフはいませんでしたので、皆さん、自分の仕事がある中で、私をサポートしてくれていました。これまで視覚障害者に接したことがないため、憶測で介助をしていくうちに間違った方法が浸透していくという悪循環になっていました。


ー状況を改善するために、村松さんが対処されたことはありますか?
伊豆と富士では、大きく2つの変化がありました。1つ目は、チームにつく責任者が変わったことです。富士で新しい責任者に色々な仕事がしたいことを伝えると配慮してくれました。
もう1つは、私に専属の誘導者がついてくれるようになったことです。伊豆では、自分一人で周囲のサポート体制を全て作らなければいけない現状がありました。このままでは自分が孤立したまま、嫌な思い出になってしまう。後世にこの経験を話す時に、「何もできなかった」というのではなく、できたことを伝えていきたいですし、そもそも自分がやりたくて応募したことです。そこで、大会本部に連絡して、誘導者を派遣してもらいました。

ボランティア会場で、メンバーが片足を前に出して1つの円を作っている画像。
チームで一致団結(提供:村松芳容さん)

ー村松さん自身で要望を出されたのですね。
実は、オリンピック大会とパラリンピック大会の間の時期に、ボランティアを行う視覚障害者を対象にした座談会が開かれました。その中で、オリンピック大会で富士で活動したボランティアセンターのスタッフから、「富士スピードウェイはとても広くて、晴眼者でも迷うほどだ。村松さんが一人で活動するのは大丈夫だろうか」と話をしてくれました。そして、「誘導者をつけてもらえるように、大会本部に連絡してみます」と言ってくれました。
その時は、「まあなんとかなるだろう。別に誘導者はいらないかも」と思って、本番を迎えた結果、伊豆ではあのような状況になってしまっていました。


ーそうだったのですね。それでは再度、誘導者をお願いしたのでしょうか?
はい、座談会で私に誘導者をつけて頂けるという話の進捗を、ボランティアセンターに確認しました。すると、「大会本部に要望は出したけどまだ返事がない」とのことだったので、私から大会本部に連絡をしました。数日後に派遣する許可がおりたと連絡があり、富士では私に誘導者がつくことになりました。


ー大会前の座談会がきっかけで、誘導者がつくことになったのですね。
驚いたのが、誘導者として来てくださったのは座談会で誘導の必要性を発言してくれた男性だったことです。その方は、大会前から視覚障害者向けにボランティアを募集するイベントを企画したり、障害平等研修を担当されており、障害者への接し方は慣れている様子でした。大会前から私のことを気遣っていただいた方が誘導をしてくれるとのことで、とても心強かったです。

村松さんが誘導者と一緒に、競技場の脇を歩いている後ろ姿の画像。
誘導者の存在は大きかったそうです(提供:村松芳容さん)

ー誘導者がついてからどのような変化がありましたか?
情報保障が大きく変わりました。誘導者は、移動中も風景や競技場の様子を丁寧に教えてくれました。私が学校に帰った時に、児童や生徒に自分が見た景色を伝えることができると思い、うれしくなりました。さらに、誘導者が私と接する様子を見て、周りの仲間の接し方も自然になりました。誘導者を派遣していただけたことで、私にとっても周りにとってもいい影響があったのかなと思います。


ー実際の業務はどのように行ったのですか?
例えばブーケを運ぶ役割の時は、私がブーケの載ったお盆を持つと、私の左側に誘導する仲間が立ち、私の腕に手を添えて進行方向へ誘導してくれます。
お盆を渡し終えると、私は誘導してくれた仲間の腕につかまって戻っていきます。
表彰式の度に、10人で4つの仕事をローテーションしていくのですが、私が入るときには「村松を誘導する人」という5つ目の役割も作っていただきました。
伊豆ではブーケを運ぶことしかできなかったのですが、富士ではアスリートやプレゼンターの先導も含めて、4つの仕事を全て経験することができました。

競技場の中でお盆を持つ村松さんと左側で進行方向へ誘導するボランティアメンバーの画像。
お盆にメダルを乗せて運ぶ(提供:村松芳容さん)

ーそれはよかったですね。環境が変わり、業務にもいい影響があったのですね。
富士では日本人アスリートをエスコートできるなど、伊豆ではできなかったことがたくさんできました。伊豆での活動中はすごく悔しかったのですが、その分、富士で嬉しい経験ができ、様々な感情がぐちゃぐちゃに入り混じった濃密な2週間でした。


ーボランティアを通して感じたことはどのようなことですか?
障害者をひた隠しにして生きるよりも、自分でできること、手を借りればできること、どうしてもできないことを、目の前の人にはっきり示すことの大切さを実感しました。全盲でも、誰かと一緒にやればできることがたくさんありました。
ボランティアだから必ず誰かのサポートしなければいけないということはなく、視覚障害者がボランティアに参加できるということを示すだけでも意味はあったのかなと思っています。

海上自衛隊の白い制服を着て、敬礼のポーズをしている村松さんの画像。
海上自衛隊の制服を試着する経験も(提供:村松芳容さん)

ー村松さんの行動力があってことだと感じました。今回のパラリンピックを経て、障害の有無に関わらず誰もが暮らしやすい社会の実現に近づいたと思いますか?
パラリンピックを実施するだけで障害者のことが社会に伝わったわけではないと思います。この大会がきっかけになり、多くの人が視覚障害者へのサポート方法を知り、積極的に声をかけるということを繰り返し続けてこそ、レガシーになると思います。レガシーっていうとかっこいいですが、一方で、そんな一言で済む話ではないことも感じています。今も駅員さんに誘導を頼めば、歩けるのにエレベーターに誘導されることがあります。そうではなく、もっと自然な関わりができる社会になるためにできることを考えたいと思います。


ーたしかに、大会が終わってからが大切というメッセージには共感します。
パラリンピックは、障害とは何かを見つめ直すきっかけだと思います。たまに「障害があってもこんなことができるなんて、すごい」という声を聞くことがありますが、そのあと皆さん自身の生活に何か変化はありますか?
「すごい」という言葉の裏には、どこか障害者を見下している気持ちはないでしょうか。
パラリンピックは、そういうイメージを変えていく大会であってほしいです。例えば、視覚障害者マラソンで金メダルを獲得した道下美里さんの表彰式では車椅子のボランティアが先導していました。日常生活の中でも同じような風景がたくさん広がればいいなと思います。

控え室でボランティアメンバーと一緒に笑顔で記念撮影している画像。
ボランティアメンバーと記念撮影(提供:村松芳容さん)

ーこの記事を読んている人に伝えたいことはありますか?
障害に対する偏見を少なくして、積極的に声をかけてほしいですね。大会期間中、ボランティアのユニフォームで電車に乗っていた時、小学生が「パラリンピックの人だよね」という声が聞こえて、私が電車を降りる時に「こっちだよ」と誘導してくれました。こんな小さな声かけが少しずつ増えてくれば嬉しいです。


ーこれから村松さんがやりたいことはどんなことですか?
色々なスポーツをやりたいです。今回関わった自転車競技は、今までやったことがないので、ぜひやってみたいです。
そういえば、現地の自転車競技関係者が私を見て「なぜ彼の横にはいつも人がいるのだ?」という話から、私に視覚障害があるということが伝わり、「タンデム(視覚障害者が使用する2人乗り用の自転車)に乗るか?」「パリ大会に出るぞ」とあっという間に話が大きくなりました(笑)


ー村松さんが、次回のパラリンピックでは選手として活躍されている可能性もあるわけですね。
いえいえ、まずは余暇としてのスポーツからです(笑)そこでもっとやってみたいと思えば、目指すかもしれませんが(笑)
自転車競技に限らず、とにかく新しいことに挑戦したいと思っています。
今回、ボランティアとして東京パラリンピックに関われて、本当にいい経験になりました。これからも自分に何ができるか分からないからこそ、大きなことを始める時には、小さな一歩から取り組んでいきたいです。

村松さんが公園で誘導を受けながら歩いている後ろ姿の画像。
これからの活躍に目が離せません(撮影:Spotlite)

この記事を書いたライター

Spotlite編集部

Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

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Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

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