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ストーリー

引退試合を行うブラインドサッカー元日本代表主将「お互いが歩み寄って、いい社会を作りたい」

外のベンチで笑顔で座っている落合さんの画像。
アイキャッチ写真撮影:Spotlite

ブラインドサッカー元日本代表主将の落合啓士(おちあいひろし)さん。
2020年3月に現役引退を発表し、2021年12月に横浜武道館での引退試合を企画しています。

10歳で網膜色素変性症が発覚し、見えにくさが進行する中での学校生活、寿司屋でのアルバイト、盲学校への転入など自身の生い立ちをお話いただきました。

さらに、ブラインドサッカーとの出会いから、引退試合を行う経緯、これからの活動について伺いました。

落合さんの笑顔の裏に秘められた様々なエピソードと、自ら先頭に立って行う引退試合への思いをお伝えします。

経歴

1977年神奈川県横浜市生まれ。10歳で網膜色素変性症であることが発覚する。横浜市立盲特別支援学校の高等部専攻科であんま・鍼・灸の資格を取得。治療院での勤務を経て、現在は民間企業のヘルスキーパーとして勤務している。ブラインドサッカー元日本代表主将。著書に「日本の10番背負いました(講談社コミッククリエイト)」

インタビュー

ー落合さんの病気や見え方について教えて下さい。
網膜色素変性症を発症し、現在は全盲です。私が10歳の時、2歳上の兄が同じ病気を発症しました。遺伝性疾患だったため、私も病院を受診して分かりました。症状は夜盲症から始まり、徐々に視力が低下し、視野が欠けていきました。18歳の時に、白杖を持って生きる道を選択しました。


ー高校までは普通校に通っていたのですか?

はい、小・中学校は普通校で過ごして県立高校に進学しました。しかし、当時は自分の障害を隠して生活していました。中学生の頃から教科書の文字が見えにくかったので、寝たふりをして、先生に怒られると「うるさい」と反抗していました。すると、周りからヤンキーと呼ばれ、「落合は不良だ」ということで、いじめられずにすみました。


ー「不良」ということで、見えにくさを隠していたのですね。
そうですね。勉強は嫌いではなく、学ぶ意欲はありました。ただ、自分が学べる環境がないから、できないことがもどかしくなり、「逃げちゃおう」という思考になっていました。兄は中学校から盲学校に進学していたため、親は私にも盲学校への進学を勧めました。しかし、自分自身が障害者に対して偏見を持っていたので、盲学校には行きたくありませんでした。

カフェのラウンジで落合さんがインタビューに答えている画像。
インタビューに答える落合さん(撮影:Spotlite)

ー中学を卒業後、県立高校に進学されたのですよね。
実は、中学校を卒業したらプロレスラーになりたいと思っていました。プロレス事務所に電話すると、最初は話を聞いてくれていたのですが、最後に「暗いところが見えません。人の形は分かるけど、遠いところが見えません」というと断られました。3箇所に電話しましたが、全てダメでした。そんな時、友達が「友情受験で一緒に高校受験しないか」と声をかけてくれて、運良く県立高校に合格しました。


ー高校生活はいかがでしたか?

遊ぶためにお金が欲しくなり、アルバイトを探しました。しかし、電話で最後に目のことを話すと、「責任取れないから無理だ」と10箇所くらいから全て断られました。そんな時、寿司屋でバイトをし始めた友達が、店長に話をしてくれました。
面接で、店長から「どこが見えにくい?どういうことならできる?」ということを聞いてくれて、雇ってもらえることになりました。


ー店長だけが、目の障害のことを聞いてくれたのですね。
今まで自分の障害のことを伝えると、視覚障害者というカテゴリーで判断されて門前払いだったのが、寿司屋で初めて1人の人間として見てもらう経験をしました。高校2年生の冬からバイトを始めると、すぐに楽しくなり、学校に行かず働くようになりました。店長から、「学校に行かないんだったら職人を目指すか?」と言われたので、「いいんですか?ぜひお願いします」と返事をしました(笑)

満面の笑みで話をしている落合さんの画像。
時に冗談を交えながら、明るくお話いただきました(撮影:Spotlite)

ー即答するほど、寿司屋の仕事が楽しかったのですね。
店長は「シャリは手の感覚だから関係ない」「魚のネタは、左から赤身、いか、サーモンというように置く場所を決めるから」と、本気で職人になれるように応援してくれました。さらに、松・竹・梅というような複数のネタが混ざっているメニューについては、大きなノートをお皿に見立てて、マジックでネタの配置を書いてくれました。親に学校を辞めると言って本当に高校を退学し、寿司屋で働き始めました。


ーその後、仕事は順調に覚えていったのですか?
当時は両目で視力が0.3〜0.4くらいあったので、仕事はある程度できました。しかし、ある日、朝起きたら目の前にモヤがかかっていました。すぐに病院に行くと、視力が0.01くらいにまで低下していました。
店長に「仕事ができないので、やめさせてください」と申し出ると、「出勤さえできれば店の中では面倒をみてやる」と言ってくれたのですが、自分自身が視覚障害者として生きていく覚悟ができていなかったので、現実を受け入れることができず、寿司屋を退職しました。


ー落合さんにしか分からない葛藤があったこととお察しします。
これまで視覚障害者がどうやって生きているのかを知らなかったのです。「目が見えないで生きていくのは無理ではないか?」と思い、家に引きこもりました。
そうしていると、再び親から「盲学校に行けばいい」と言われました。人間、絶望の時は人の言葉がしみるものです。「盲学校に行けばマッサージの勉強ができる」「これからはマッサージで生きていくしかないのか」と、盲学校に通うことを決めました。
盲学校の専攻科は高校卒業の資格がないと入学できないため、盲学校の高校3年生に編入して、翌年専攻科に入学しました。盲学校での1年間で点字を覚えて、専攻科には点字受験で無事に合格しました。

白杖を使い、点字ブロックに沿って1人で歩行する落合さんの画像。
慣れた場所は1人で歩行しているそうです(撮影:Spotlite)

ーブラインドサッカーとの出会いについて教えて下さい。
2003年1月、25歳の時、千葉県松戸市で行われた練習会で初めてブラインドサッカーを体験しました。小学生で見えていた時にサッカーをしていたのですが、ボールが蹴れないし、止められないし、つまらないと思ってやる気はありませんでした。練習会のあと、すぐに大会があるから出てくれないかと仲間から誘われて、2003年3月、1回目の日本選手権に出場しました。夜盲症の影響で暗闇での生活には慣れており、試合ではコートの中を走り回りました。それが日本代表監督に目にとまり、8月に選考会に参加して、日本代表メンバーになりました。


ーお仕事は何をされているのですか?

盲学校を卒業後、治療院で働いていたのですが、勤務時間や条件が自分に合わず、1年弱で退職しました。ハローワークの求人で、ヘルスキーパーの部門を新設する民間企業に応募して、採用されました。その間にブラインドサッカーに出会い、大阪の強いクラブチームで練習するために転勤したのち、1年間は無職で練習に専念しました。
その後、別の民間企業でヘルスキーパーを新設するという話を聞き、就職しました。現在は、ブラインドサッカーのスポンサー会社に転職して、ヘルスキーパーとして働いています。


ーあんま鍼灸の国家資格を活かしながら、競技と両立していたのですね。
ブラインドサッカーの競技生活が充実するように、仕事も選んできました。しかし、1度、2005年に日本代表から外れました。紅白戦で相手の反則だと思ったプレーが続行され、僕に手を貸してくれた審判の手を払いのけてしまいました。すぐに、監督やコーチから「ピッチを出ろ」と言われて日本代表を外れることになりました。練習着や道具を押し入れにしまって、ブラインドサッカーからも離れました。


ーそうだったのですね。復帰されるきっかけは何かあったのですか?

大阪のクラブチームのメンバーが毎日電話をくれました。「迷惑だからやめてくれ」と言って、無視していたのですが、それでも毎日連絡がありました。「人生の中でそんなに自分を必要とされることはないかもしれない。またサッカーをやってみよう」と思い、練習に参加しました。そこで、腫れ物扱いされるのではなく、「おっちーってメンタル弱いんやな」「思ったより時間かかったね」と自然に受け入れてくれました。

真剣な表情で話をする落合さんの画像。
自身の経験を丁寧にお話いただきました(撮影:Spotlite)

ー大阪のメンバーからの連絡がきっかけで復帰したのですね。
大阪のクラブチームで2005年の日本選手権に出場し、優勝しました。仲間のために頑張ろうと決めて、一生懸命練習して優勝できたのは本当に嬉しかったです。「ブラインドサッカーは1人でできない。関わってくれる人のおかげ」だと感じ、支えてくれる人の大切さを学びました。


ー他にブラインドサッカーの競技生活で印象的だった出来事はありますか?
2011年に東日本大震災が発生しました。私の母が福島出身で、東北には愛着があります。そんな中、原発の風評被害を目の当たりにして、人ごとではないと感じました。東北でブラインドサッカー体験会を行ったり、マッサージのボランティアを行ったりすると、現地の人から「がんばってください」と言われて、私が元気をもらって帰ってきました。これまで自分のために続けていましたが、「東北の人たちのためにプレーしたい。被災した人にパラリンピックのメダルをかけてあげたい」と思うようになりました。結果的に日本代表としてメダルを取ることはできませんでしたが、今でも東北には定期的に伺っています。


ー引退を決めた理由は何だったのですか?

競技を再開して以降、日本代表にも復帰できていたのですが、チームの方針などで、2017年9月に再び日本代表を外れました。しかし、2020年の東京パラリンピックでメンバーになることを目標に練習を継続しました。
2020年3月に、パラリンピックの前哨戦となる国際試合でメンバーに選ばれなければ、パラリンピックは無理だと思っていました。国際試合のメンバーが発表された時に、自分の名前が無かったので引退を決めました。

ブラインドサッカーの試合中にドリブルをしている落合さんの画像。
クラブチームでプレーする落合さん(提供:©ONECLIP)

ーどうして引退試合をやろうと思ったのですか?
「パラアスリートが自前で引退試合を主催したことは今まで聞いたことがない。それなら自分がやってみたい」と考えました。また、新型コロナウイルスの感染が広がって以降、ブラインドサッカーでは無観客での試合が続いていました。パラリンピックが終わっても興味が薄れないように、生でプレーを見る機会を作りたいと思い、有観客で引退試合を行うことに決めました。


ーどのように準備を進めているのですか?

本来は、去年12月に開催したいと思っていたのですが、新型コロナウイルスの影響で1年延期を決めました。
私が所属しているマネジメント事務所には、Jリーガーが多数在籍しています。オフシーズンであれば協力してもらえるとのことで、12月を予定していたのです。今年の9月くらいに、ワクチンが普及し、感染が少し収まってきたので、再び12月に計画しました。


ーJリーガーにも声をかけるほどの大きなイベントなのですね。
開催にかかる費用を見積もりしてもらうと、300万円近く必要だということが分かりました。最初は自腹を切ろうかと思ったのですが、それでも高額なのでどうしようか悩んでいると、マネージャーから「クラウドファンディングをやりますか?」と言われて、「その手があったか」と即決しました。

引退試合に向けたクラウドファンディングページのメイン画像。
クラウドファンディングに挑戦(提供:©ONECLIP)

ー当日の試合はどのようなチームで戦うのですか?
「代表フレンズ」対「おっちーアミーゴ」という2チームで試合を行います。代表フレンズには、私の現役時代から一緒にプレーしたトップ選手が多数参加してくれます。おっちーアミーゴには、ブラインドサッカーに出会うきっかけをくれたベテラン選手から、中学生まで幅広い年代のチームです。私は、前半が代表フレンズ、後半はおっちーアミーゴの選手として試合に出場します。


ー自ら率先して企画を行う落合さんの思いを教えて下さい。
周りの人に、「自分がやりたいことが実現できる」ということを伝えたいと思っています。「おっちーアミーゴ」には中学3年生と高校1年生の選手がいます。将来について話を聞くと、「本当はなりたい夢があるけど就職できないだろうから、別の仕事に就く」と言っているのです。学生のうちから、消去法で仕事を決めるのはもったいないです。なれるかなれないかは自分の頑張りや環境次第で、どうなるか分かりません。でも、「可能性は自分次第」というチャレンジする気持ちだけは忘れないでほしいです。


ー新しいことに挑戦しようと思う人が増えてほしいですね。
パラリンピックでブラインドサッカーに興味持った人たちに、見えなくてもこんなすごいプレーができるということを知ってほしいです。一方、ピッチの外に出れば、初めての会場のため、誰かの誘導がないと移動できません。そのギャップにも気づいてもらえると嬉しいです。今はたまたま視覚障害の話をしていますが、日常生活でも同じです。大人と子供、日本人と外国人、それぞれの苦手なことは得意な人がサポートしあえればいいなと思っています。

誘導者と一緒に駅前の広場を歩く落合さんの後ろ姿の画像。
初めての場所は、誘導者と一緒に移動します(撮影:Spotlite)

ークラウドファンディングというのも面白い取り組みですね。
お金という形で表れているのは、優しさだと感じるようになりました。ものごとはいろいろな捉え方ができます。お金を集めることをいやらしいと思えば、そう見えるかもしれませんが、誰かの優しさを形に変えているという見方もできます。私は昔、白杖を持つのがいやでした。今は「お店に入れば2回目には覚えてもらえる」「素敵な人との一期一会がたくさんある」と考えています。自分の人生のプラスになるような捉え方をしていきたいと思っています。


ー引退試合の後は、どんな活動をしていく予定ですか?
どんどん新しいことにチャレンジして、ワクワクすることをしたいです。引退試合を終えたら「ブラインドサッカー元日本代表」という肩書きは捨てます。これからは、日本初の全盲ラッパー、全盲ユーチューバー、あと何をやろうかな(笑)
視覚障害のある子どもたちのために、フリースクールや塾のような居場所も作りたいと思っています。

落合さんが砂浜で子供たちと一緒に笑顔で記念撮影している画像。
子どもたちへの思いが伝わってきました(提供:©ONECLIP)

ー視覚障害者や関わる人たちに向けて伝えたいことはありますか?
お互いが歩み寄って、いい社会を作りたいと考えています。今、健常者が「視覚障害者を見かけたら声をかけましょう。積極的にサポートしましょう」という啓発活動をよく目にします。
しかし、視覚障害者がそれに頼りっぱなしではいけないと思うのです。視覚障害者が一人で歩いていて声をかけられた時、本当はサポートが不要な場面でも、ぶっきらぼうに断るのはよくありません。「お気持ちはありがたいのですが、今は自分で歩きたいのでごめんなさい」というように、相手に配慮した言葉かけが大切です。もし健常者の中で視覚障害者に声をかけて、冷たい態度をされてしまった人がいても、たまたま事情があったのかもしれないので、また次に視覚障害者を見かけたら声をかけてほしいと思います。


ー積極的に行動されている落合さんの言葉だから説得力がありました。
たまに、視覚障害者が受け身になっている場面に出会います。例えば、健常者と視覚障害者が一緒に食事をしている時、自分の飲み物がなくなれば、声をかけられるのを待つのではなく自分から声を出したり、お店から駅に向かうときには自分から誘導をお願いします、という声かけをしたほうがいいと思います。もちろん場面に応じた配慮をしつつ、お互いに共生していこうという気持ちを持っていたいと考えています。


ー引退試合でのご活躍、楽しみにしています。
自分の中にある温かさや思いやりをどのように表現すれば良いか分からず、もやもやしている人の心に火をつけたいです。試合以外にもブラインドサッカーの体験会や特別ゲストとのイベントなど、いろいろな企画を用意しています。会場で見かけたら、声をかけてもらえると嬉しいです。
試合に向けて、8キロくらい痩せました(笑)最後のプレー、楽しみにしていてください。

引退試合を観戦するために

引退試合のチケットは、クラウドファンディングのリターンに含まれています。
クラウドファンディングは12月12日日曜日に終了し、以降、当日券などの販売は予定されていません。

その他、様々なリターンがあります。試合に行けない方も、ぜひクラウドファンディングで優しさを届けてみてはいかがでしょうか。

<クラウドファンディング Webサイト>
全盲のサッカー選手 落合啓士 引退試合を開催し、共生社会を実現させたい(外部リンク)

この記事を書いたライター

Spotlite編集部

Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

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Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

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