アルビノ(眼皮膚白皮症)、それによる視覚障害、発達障害の一つである自閉スペクトラム症(ASD)、うつ病、そしてセクシュアルマイノリティ。私、雁屋優(かりや ゆう)が抱えるマイノリティ性を大まかに挙げるとこうなります。障害が重なると、それによる困難は個別に発生するのではなく、相互に作用して大きくなります。困難が相互に作用して大きくなると言われても、イメージがつきにくいかもしれません。この記事を通して、障害やマイノリティ性が重なることについて、一緒に考えていただけると嬉しいです。
インターセクショナリティとは? 重なり合う障害、マイノリティ性
私は生後数ヶ月で、アルビノと診断されました。アルビノは、色素が薄く生まれる遺伝疾患で、視覚障害を伴うことがあります。髪や目の色が薄い容姿、日焼けに弱くて真っ白な肌、そして弱視、眩しさを強く感じる羞明が、私の症状として挙げられます。日常生活では、遮光眼鏡をして過ごし、外出時には日焼け対策をしています。容姿に何らかの症状がある人々が差別される「見た目問題」の一つとして取り上げられることが多く、そのイメージの強いアルビノですが、視覚障害を引き起こすこともある疾患です。
それだけではなく、大人になってから、発達障害、そしてその二次障害としてうつ病と診断されました。発達障害の主な症状として、非言語コミュニケーションの苦手さ、特定のことへの強い興味や関心が挙げられます。私は、人間関係の構築や維持が苦手で、小説や生物学や医学関連書籍を読むこと、文章を書くことに熱中し、他のことには興味を示さずに生きてきました。それゆえに、私が診断に納得するのは比較的早かったように思います。
さらに、発達障害の診断の少し前から、私は自身の性自認や性的指向について、集めた知識から結論を出しつつありました。私は、出生時に割り振られた性別に違和感があり、なおかつ異性愛者ではありません。セクシュアルマイノリティである自覚が徐々に芽生えていきました。
インターセクショナリティという概念があります。日本語に直訳すると「交差性」です。マイノリティ性による困難は、一つのマイノリティ性によってのみ生じるのではなく、いくつものマイノリティ性が重なり合い、相互に作用することで、より深刻なものになりうることを示す考え方です。例に挙げられることが多いのは、黒人女性や障害のある女性です。
私自身も、マイノリティ性がいくつも重なり合い、交差する場所に立っています。
髪型を変えた上司に「初めまして」と言ってしまう。弱視と発達障害の相互作用とは
マイノリティ性が相互に作用するとは、具体的にどういうことなのでしょうか。
私がマイノリティ性の相互作用の話で真っ先に思い出すのが、「人の顔を覚えられない/表情を感じ取れない」ことです。これは、弱視と発達障害の特性によるものです。特性の中に、相貌失認があります。他人の顔の認識が弱かったり、相手の表情を読み取りにくかったりするのです。その上、私は弱視なので、相手の顔の特徴を目で見て捉えるのが難しいです。
学生時代には、アルバイト先の上司や同僚が髪型や服装を変えた際に、「初めまして」と挨拶したことが何度かあります。弱視であることを伝えていたので、「雁屋さんは目が悪いから仕方ないよね」と特に怒られることもありませんでした。今思い返せば、視力の割に顔の認識が明らかに弱いのですが、アルバイト先の人々も私も障害に詳しくなかったので、発達障害の特性とは思いもせず、視覚障害のせいだと考えていました。
学生時代のアルバイト先では人の顔を覚えられないことを責められずにすみましたが、上手くいくことばかりではありませんでした。人の顔を覚えられないので、そもそも人と親しくなるのが難しかったです。何とか親しくなれても相手の表情から気持ちを推し量ることが不得手なので、結果として人間関係の構築や維持は、私にとって難易度の高いものとなりました。私自身が多くの人間関係を求める性格ではなかったので、二次障害としてうつ病を発症するまで、このことをあまり深刻に捉えることはありませんでした。
マイノリティの中のマイノリティ
一方で、視覚障害やアルビノに関するコミュニティに顔を出したり、支援につながったりするようになってから、私は、発達障害の特性ゆえに苦労するようになってしまいました。そこに集まる人々は、視覚障害やアルビノという点では私と似ているので、共有できる経験や困りごとがあります。その一方で、発達障害を併せ持つ人は、そう多くはありません。支援者も、ある障害には詳しいけれど、他の障害には詳しくない場合がありました。
発達障害の特性ゆえに、コミュニケーションにおける失敗をいくつも重ねていっていることは自分でもわかるのですが、どうしたらいいのかわからず、話しやすい数人とだけやり取りをしています。
私は、マイノリティのコミュニティの中でもマイノリティになってしまったのです。視覚障害があっても、発達障害を理解しうるとは限りません。逆もしかりです。さらに、私はセクシュアルマイノリティですが、障害者のコミュニティの中で、時折恋愛の話を振られることもあります。そこで、「男の人を好きになることはない」と伝えても、何だかもやもやする反応が返ってきたこともあります。
マイノリティ性の重なり、相互作用について理解されないこともあり、その度に私の心は閉じていきました。
共通点はあっても、違っていて当たり前
コミュニケーションが苦手な私なりにいろいろなコミュニティに顔を出したり、情報収集したりして、わかったことがあります。理解が得られる可能性が高いのは、共通点はあっても、症状や困りごとには個人差があることがしっかり認識されている場所です。例え私のマイノリティ性の一つが相手の知らないものであっても、個人差について知られていれば、知らなかったことでも理解しようとすることができます。逆に、一つのマイノリティ性のみに焦点を絞って、他のマイノリティ性の存在が考慮されていない場所では、理解を得るどころか、そういったことを打ち明けることも、怖くてできません。
すべてのマイノリティ性を理解するのが不可能なことは、私も知っています。それでも、その場所でテーマになっているマイノリティ性以外のマイノリティ性のある人がその場にいる可能性を考慮できないものだろうか、とも思ってしまうのです。すべてを網羅しようとするのではなく、自分の知らない何かがある前提に立つことで、変わるものもあるのではないでしょうか。人間は、それぞれ違っているものですから。
「私達は同じだから、わかりあえる」ではなく、「私とあなたは違っているから、言葉を尽くさなければ何もわからない」と考える人が増えたとき、マイノリティ性が交差することによる困難は、小さくなっていくのではないかと私は考えています。
言葉を尽くさなければ他人を理解できない。当たり前のように思えることですが、この感覚を徹底するのは難しいです。私も、つい「視覚障害」や「発達障害」といったカテゴリで、簡単に他人を理解しようとしてしまいます。その方が、言葉を尽くすよりずっと楽であると知っているからです。
それでも、カテゴリで理解したつもりになってしまうことによって、自分が置き去りにされた事実を知っています。そして、そのように置き去りにされたのが、自分だけではないことも。
他人を簡単に理解することなど、できはしない。知らないことがまだまだたくさんある。他人を必ず理解できると思って傲慢にならないように、自分自身にもそう言い聞かせています。