今回は、先日公開したコラム「視覚障害者の友達が、突然一人暮らしを始めました。(内部リンク)」に登場した山口凌河(やまぐち りょうが)さんのインタビューです。
山口さんは障害者スポーツのゴールボールに取り組み、日本代表として2020年の東京パラリンピックで活躍が期待されています。
盲学校での価値観が変わった出会いやゴールボールの魅力、これからの目標などを伺いました。
※所属や肩書は2019年の取材当時のものです。
略歴
平成9年、茨城県取手市生まれ。小学5年生から野球を始め、中学校では野球部のキャプテンを務める。
中学2年生の時、レーベル遺伝性視神経症を発症し、高校から茨城県立盲学校に進学。先生の影響でゴールボールを始める。高校2年生の時、全国盲学校弁論大会で優勝。
東洋大学社会福祉学科に進学後も競技を続け、日本代表強化指定選手に選ばれる。現在は関彰商事株式会社に所属し、トレーニングのほか、講演や啓発活動も積極的に行っている。
インタビュー
友達のおかげで中学校を卒業できた
ー目の病気や見え方について教えてください。
レーベル遺伝性視神経症という病気です。見え方は、目の前で手を動かせば分かりますが、指の本数までは分かりません。このような見え方は手動弁と言われています。
プールの中で目を開けている様子や、濃い霧の中にいるのをイメージしてもらうと分かりやすいかもしれません。
ー病気はいつ発症したのですか?
中学2年生の3月です。野球部では、ボールが見えにくいことを隠しながらプレーしていたのですが、友達や監督が気付いてとうとう試合に出れなくなって…。キャプテンだったので、悔しいのと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
メガネ屋に行って色々なレンズを試しても見えないので、眼科に行ったら「レーベル遺伝性視神経症です」と言われて、それから約半年で今と同じくらいの見え方まで視力が低下しました。
ー約半年で急に見えにくくなったのですね。
日に日に見えにくくなって、病院の先生から「治らない」と言われたときは「これからどうなるんだよ」と自暴自棄になってしまいました。
遺伝性の病気だと聞かされて、母親にも「お母さんの子どもじゃなかったらよかったのに」と言ってしまうなど、気持ちの整理ができませんでした。
ーそれでも中学校は最後まで通って卒業したんですよね。
そうです。見えなくなったショックで引きこもっていると、友達が毎朝家まで迎えに来てくれて「学校行くぞ、お前がいないとおもしろくないよ」と言ってくれました。
その一言が最初の分岐点だったと思います。それからは何も考えないまま、毎日ただ楽しく生きることを考えて中学校に行きました。
先生にはたくさん迷惑をかけたと思いますが、その時は目が見えないことを忘れたいという気持ちだけでした。中学生活を最後まで終えることができたのは友達のおかげです。
盲学校での出会いと変化
ー自分の障害に向き合うきっかけはあったのですか?
盲学校に進学したことが大きな転機になりました。最初は、白杖や点字を使うことに抵抗があり、一般の高校に進学したいと思っていました。でも、文字が読めないし点字もできない状況では、盲学校へ進学するしかなかったのです。
嫌々盲学校に入りましたが、入学してすぐ、生まれつき全盲の男の子に出会いました。その子は小学校6年間、先生とマンツーマンの2人きりで授業を受けていたそうです。
ーその子と関わる中でどんなことを感じたのですか?
僕と話した時、「自分の友達は山口君が初めて。友達ってこんな感じなんだ。友達がいて嬉しい」と言われて言葉が出ませんでした。
僕は当たり前のように友達がいて一緒に勉強や部活をして、「今まで自分が住んでいた世界はなんだったんだろう」と考えました。
自分に当たり前のことが、その子にとっては当たり前じゃなかった。そのことに気付いて一歩成長できたのかなと思います。それから、学校の先生の影響でゴールボールも始めて、打ち込めるものも見つかりました。
ー 一般校に進学していれば、気付けなかったことですね。
そうですね。あとは、高校1年生の冬、ゴールボールのユース代表合宿に参加した時のことです。僕は1人で会場に行くのが不安だったので父親に付いてきてもらいました。でも、視覚障害者の選手達はひとりで来て自分で身支度をしていました。
そこで「視覚障害を言い訳にしてきた自分は甘かったんだ」ということに気付いて、自分のことが恥ずかしくなってしまいました。
ーそれから山口さんの中で変化はありましたか?
点字や歩行の練習を一生懸命行うようになりましたね。今の練習拠点でもある所沢の体育館に行った時も、監督から「まずは1人で来れるようになりなさい」と言われて練習しました。自分でできることが増えてくると、身の回りのことも上手くいくようになったと思います。
ーゴールボールの魅力は何ですか?
選手はアイシェード(光が入らないゴーグル)をつけるので、見え方に関わらず同じ条件でプレーできることです。コートに入れば、見えないことが障害ではなくなります。
また、ゴールボールはコミュニケーションスポーツとも言われているので、チームのみんなで協力して点を取った時は気持ちいいですね。
日本一になった「笑顔」
ー高校2年生のときには全国盲学校弁論大会でも優勝されたのですよね。どんな大会なのですか?
盲学校に通う児童生徒が年に一度、自分の経験などをスピーチする大会です。昔、障害があるだけで差別されていた時代に視覚障害者が立ち上がり、大勢の前で「視覚障害者はみんなと変わらない。社会の一員として受け入れてほしい」と熱く訴えたのが始まりです。僕が出場したのは第82回という歴史のある大会です。
ー弁論大会ではどのようなことを話したのですか?
自分で説明するのは恥ずかしいのですが、演題は「笑顔」でした。
目が悪くなって、野球部でキャプテンにも関わらず試合に出られないのが嫌になった時期、友達に「とりあえず笑え」と言われました。心の中では「笑えねえよ」と思いながら、みんなで笑っていると「目が見えなくなったから…野球ができないから…」と言って落ち込んでいる自分が情けなくなりました。
仲間の笑顔が僕を救ってくれたので、これからも笑顔を絶やさないようにしたいということを伝えました。最後には自分でもかっこいい言葉を言いましたね。
ーかっこいい言葉とは何ですか?
「辛い時こそ笑い、苦しいときこそ笑えば、湿った心も笑いで乾くことでしょう、だからこそ、笑って笑って楽しく生きていきたい。」です。何回も練習したので、今でも覚えています。改めて説明すると恥ずかしいですね(笑)
1人でもいいから周りの人に伝えてほしい
ーこれからの目標や挑戦したいことを教えてください。
ゴールボールの日本代表として2020年の東京オリンピックで金メダルを取ることです。そのために一生懸命練習するのはもちろんですが、監督からは「応援される人間になれ」とよく言われます。
だから、普段の生活から「目が見えなくても自分にできることは何だろう」ということを考えながら生きていきたいです。
ー今、悩んでいる視覚障害者に伝えたいことはありますか?
僕が見えなくなって気付いたことは、人は一人じゃ生きていけないということです。これは障害者だけでなく、誰にでも言えることだと思います。
何か病気をしたり怪我をしたら人の手を借りますし、嫌なことがあったら友達や家族に話を聞いてもらいます。
誰かに頼ってもいいんだと思えば少しは気が楽になるので、最初は勇気がいるかもしれませんが、できないことがあれば素直に話してみるといいのかなと思います。
ー晴眼者が視覚障害者と接する時に大切なことはどんなことだと思いますか?
中学生の時に支えてくれた友達が1番すごかったのは、自分の目が見えていた時と同じように接してくれて、同じ遊びをして、一緒に色んなところに行ったことです。些細なことが大きな幸せに感じました。
友達は、視覚障害者の接し方を学んだことがなく、変な先入観がなかったのだと思います。「視覚障害者と接する時はあっちそっちという指示語を使わないで」など具体的な注意点はありますが、それらのテクニックの前に、健常者と変わらないという意識で自然に接してもらえるとありがたいです。
ーこれからよりよい社会にするために伝えたいことはありますか?
もし僕のことを知って気づいたことがあれば、1人でもいいから周りの人に伝えてほしいです。家族や友達、同僚など誰でも構いません。
僕は、14歳で視覚障害者になるまで障害者とは無縁の人生で「自分とは違う」と言う目で見ていました。
だから皆さんには、これを機に少しでも視覚障害者のことを知ってほしいのです。
そうすることで視覚障害者のことを知っている人たちの輪が少しずつ大きくなっていけば嬉しいです。