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編集部から

視覚障害者の餃子をヒタヒタにしてしまった夜。失敗を振り返る【代表コラム】

男性らしき2人の人物の足元の写真。一人は白杖を持っている。

今回は、私が視覚障害者と接する中での体験談のなかでも、失敗してしまった経験を中心に、いくつかお伝えします。

今でも数え切れないほど失敗しながら、少しずつ、視覚障害者との関わり方を学んでいます。視覚障害者と接することの楽しさと奥深さが伝われば嬉しいです。

私が視覚障害者と関わるようになったきっかけは、以下の記事からお読みいただけます。

餃子をヒタヒタにした夜

中華料理屋の入口のだショーケース。餃子、ラーメン、野菜炒めなどの食品サンプルが並んでいる。
(写真素材:Unsplash)

まずは、視覚障害者との関わりの根本になっているエピソードをご紹介します。

ゴールボールの練習後、仲間たちと中華料理店に行ったときのことです。私は気を利かせて、視覚障害者の仲間のために、しょうゆと酢とラー油のバランスを聞きながら、完璧な餃子のタレを作り、そこに餃子を浸して渡しました。

「完璧なサポートができた」と内心でドヤ顔をしていたら、「おお、タレに入れてくれたんだ。自分でつけて食べたかったんだけど、まあいいや」との一言。

タレにつけて食べるという動作も、その人にとっては楽しみの一部であり、自分の好きなタイミングで、好きなだけタレをつけて食べたかったのです。

気を利かせたつもりが、視覚障害者の楽しみを奪ってしまった。大きな気づきでした。

後日、別の視覚障害者と餃子を食べに行ったとき、「餃子とタレは別々がいいですか?」と聞くと、「一緒にしてくれたほうが食べやすいから、タレに入れちゃって」と言われました。

餃子のタレの割合が人それぞれ違うように、食べ方もまた人それぞれ。「こうするべき」ではなく、「どうしたらいいですか?」とまず聞くことが、いちばんの気配りなのだと学びました。

バスに乗り間違えた新人ガイド

ガイドヘルパーを始めて間もない頃。利用者さんと一緒に、ある講演会の会場へ向かうため、バスを利用することになりました。

私は「来たバスに乗れば目的地に着く」と単純に考えて、行き先をろくに確認もせず乗り込みました。

しかし、バスはどうも違う方向へ。異変に気づいたのは、隣にいた視覚障害の利用者さんでした。「ん?このバス、なんか違くない?」という一言で慌てて次の停留所で降車しました。その方は講演会の講師として現地に向かう予定で、もう時間ギリギリ。

タクシーを拾うために慌てて移動しながら、ふと横を見たときの険しい表情の彼の横顔は、今でも鮮明に覚えています。なんとかタクシーで目的地まで向かい、ギリギリ間に合いました。

都会のターミナル駅周辺の広い歩道を歩く、白杖の人とガイドヘルパーの後姿。

案内される側になった大阪駅

そもそも私は高校卒業まで、四国の香川県で過ごしていました。電車やバスはあるものの、路線や本数が限られており、基本的に車社会です。友達と遊びに行くのは徒歩か自転車、家族と出かけるのは車ばかり。電車やバスに乗った記憶は数えるほどしかありません。

東京に出てきて最初に驚いたのは、「駅は1つじゃない」ということです。

JR新宿駅には改札が5つ以上あり、改札を出て歩いているはずが、「新宿駅」という入口を何個も見かけるのです。「え、新宿駅ってそんなにたくさんあるの?」と戸惑ったのを覚えています。その上、スマホの乗換案内で「西武新宿駅に乗り換える」という案内を見て、さらに混乱しました。

JR新宿駅の駅員さんに「西武新宿駅って、何番ホームですか?」「なぜ、同じ新宿駅なのに改札を出るのですか?この改札を出て大丈夫ですか?」と、聞いていたレベルです。

1つの駅で改札が複数ある上に、鉄道会社が違うと乗り場も改札も変わるという複雑なシステム。地方出身の自分にとっては、迷路の中をただ右往左往する毎日でした。

それでも都会に慣れて、いろいろと失敗を重ねながらも、少しずつ私は「誘導する側」らしくなってきた。そう思っていた矢先です。大阪駅で、全盲の友人に道案内されるという出来事がありました。

目的地は駅から徒歩10分ほどのカフェでした。彼は迷いなく「右の通路をそのまま進んで、エスカレーターを上がると近いよ」と、私を導いてくれました。途中の分岐で「僕、これで合ってますか?」と尋ねると、「うん、合ってるよ」と即答です。正直、スマホのナビよりよほど頼りになる誘導だったので、「ごめんなさい、そのままお願いします」と伝え、彼の案内に頼ったまま、すんなり目的地に到着しました。

これは失敗談ではないですが、視覚障害者と接していくなかでの新しい発見でした。見えている・見えていないという壁を超えて、「得意な方が案内すればいい」。そんな自然体の関係性が、ありがたく、心地よかったのを覚えています。

「ごめんごめん」が許されなかった日

別の日。事業所の開設当初からずっとサービスを利用してくださっていた20歳ほど年上の男性がいました。明るく、やさしい人柄で、公私ともども仲良くさせていただいていたので、私はすっかり“友達モード”で接していました。

気が緩みすぎていたのか、同行援護で買い物の依頼を受けていたある日、バス停での待ち合わせに少し遅れてしまい、軽い調子で「ごめんごめん〜」と声をかけてしまいました。

そのとき返ってきたのは、静かで、でも、しっかりとした声です。

「なんだその言い方は。高橋くん、仲が良くても、ちゃんとするところはしないと。
遅刻することは仕方ない。でも、事前に連絡するとか、できることもあったよね?
そして、遅れてきてその言い方はないよ」

恥ずかしかったですし、何より、申し訳なかったです。「親しき仲にも礼儀あり」を、身をもって学びました。

こうして指摘してくださる方がいるからこそ、今の私があります。福祉サービスを提供することの責任を、身をもって学ばせてもらい、現在のみつきの事業に反映しています。

点字ブロックのある都会の広い歩道と、白杖の人、ガイドヘルパーの足元の写真。

失敗のたびに、許してくれた人たちがいたから

香川から出てきて10年以上が経ち、今では視覚障害者の外出をサポートする同行援護の事業所を運営する仕事をしています。「駅は1つじゃない」と驚いていた自分が「視覚障害者を目的地まで案内する仕事」をするなんて、当時の自分が聞いたら腰を抜かすかもしれません。

同行援護を始めてからも、餃子をヒタヒタにしすぎたり、バスを間違えたり、「ごめんごめん〜」で怒られたり……たくさん失敗してきました。しかし、そのたびに、誰かが教えてくれて、許してくれて、少しずつ成長できた気がします。

今では、餃子のタレは「どうしますか?」と聞いてからお渡しするようになりましたし、新宿駅でも「これはJRの新宿駅だから、西武新宿に乗るには…」と説明できるようになっています(たぶん)。

他にも、ここではご紹介しきれないほど、たくさんの失敗があります。ただ、失敗以上にやりがいのある仕事です。ガイドヘルパーになりたての皆さま、これからやってみようかなと思う皆さま、ぜひ一緒にお仕事できれば嬉しいです。

現場を離れた今でも、利用者さんやガイドヘルパーの皆さんの話を聞くたびに、視覚障害者との関わりは楽しくて奥が深くて、日々新しい発見ばかりです。これからも見え方に関わらず、誰もが気軽におでかけできる社会を、一緒につくっていきたいと思います。

私が目指す社会については、以下の記事からお読みいただけます。

記事内写真撮影:Spotllite(※注釈のあるものを除く)

この記事を書いたライター

高橋昌希

1991年香川県生まれ。広島大学教育学部卒業後、国立障害者リハビリテーションセンター学院修了。視覚障害者のための福祉施設での勤務を経て、ガイドヘルパーの仕事を行う。教員免許(小学校・特別支援学校)を保有。歩行訓練士。Spotlite発起人。

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1991年香川県生まれ。広島大学教育学部卒業後、国立障害者リハビリテーションセンター学院修了。視覚障害者のための福祉施設での勤務を経て、ガイドヘルパーの仕事を行う。教員免許(小学校・特別支援学校)を保有。歩行訓練士。Spotlite発起人。

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